人はパンだけで生きるものではない(2) | 大分アントロポゾフィー研究会

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肉体に備わる感覚器官を媒介にして、私たちは感覚的イメージを獲得する。

感覚的イメージの中に、私たちは五感に沿って、視覚イメージ、聴覚イメージ、触覚イメージ、味覚イメージ、嗅覚イメージを見出すことができる。

 

言語感覚を媒介にして、私たちは言語的イメージを獲得する。

 

感覚的イメージと言語的イメージを用い、そして思考するによって、私たちは文脈イメージを作る。

 

これらイメージは、私たちの魂の空間/意識の内に偏在(へんざい)している。

 

これらイメージを、私たちは記憶内容として保持することができる。

そのようにして私たちが記憶しているものは、文脈イメージ/思考内容である。

 

感覚的イメージ(視、聴、触、味、嗅)を媒介にして、霊的ヒエラルキア存在たちと協力することにより、私たちは自らの体(たい)を形成する。

 

感覚的イメージのみでは、私たちは文脈イメージ/思考内容を形成することはできない。

思考することなしに、私たちは文脈イメージ/思考内容を作ることはできない。

 

人間の持ち得たような言語を、他の動物たちは持っていない。

つまり、動物たちは人間のような言語感覚を持っていないのである。

言語活動は思考そのものではないが、思考と密接に結びついており、多くの場合、人間の思考は言語を媒介にして成される。

 

つまり、感覚的イメージと言語的イメージを通して(媒介にして)、私たちは世界を見ているのである。

そしてその世界で生きていくために、文脈イメージ/思考内容を生み出し続ける。自らが生み出した文脈イメージ/思考内容を媒介にして、私たちはこの地上世界の実相を何とかしてつかみ取ろうとする。

 

いずれにしても、私たちはイメージを媒介として地上世界の実相に触れようと努め、そしてそれに触れたと思い込む。

イメージの虚構性という性質をいつの間にか忘れて、イメージがまさに実相であると勘違い(かんちがい)するようになってしまうのである。

 

私たちの魂と実相の間にイメージが入り込む。

魂 - イメージ - 実相という構造である。

この構造上、魂と実相とは直接的に結びついていないのに対し、魂とイメージとは何の媒介もなく結びついている。

また、イメージと実相との関係性については、これまで数多くの様々な説明がなされてきた歴史があるが、・・・

 

魂に対するイメージというものの直接性ゆえに、イメージは強力であり、魂においてほとんど絶対的なまでの力を持つ。

また、イメージの助けなしには、私たちはこの地上世界を生き抜くことはできない。

地上世界の実相に直接的に関与できない私たちは、イメージ以外のものを実際のところ知らないのである。

 

私たちの魂は、何らかの経緯によって、自らの内に見出すようになった何らかの文脈イメージと一体化するところまで行く。

私たちは生きていく中で、他者由来の無数の文脈イメージと遭遇し、それらに対する愛憎の感情を抱く。

それらに対する関係性如何に関わらず、私たちはそれらの文脈イメージに影響を受け、場合によってはそれらを受容し、受け入れたものに自分なりの変更を加えながら、自らの文脈イメージをこしらえ上げる。

私たちは何のために文脈イメージを作り続けるのだろうか。

まさしく、生きるために。文脈イメージは、まさに生きるための指針となるのだ。

 

幸運なことに、私たちが自らこしらえた文脈イメージは、絶えず変更を余儀なくされ、場合によっては放棄しなければならない場合も出てくる。

何らかの文脈イメージを媒介にすることにより、何ごとかが見えてくる。主観的には実にクリアーに見えているように思われる。同時に、何ごとかが隠れてしまう。そしてある時突然、見えていた何ごとかに異変が生じる。わからなくなる。しばらくして、それまで隠れていた何ごとかに気づく。

つまり、頼りにしていた既存の文脈イメージが変更されたか、放棄され、新たな文脈イメージが誕生したのである。

 

ことの経緯は、実に魔術的である。まさにイメージの魔術である。