人はパンだけで生きるものではない(1) | 大分アントロポゾフィー研究会

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この地上の世界を生きるために、人は肉体/物質体を纏う(まとう)。そのスタート地点を、私たちは「受肉(じゅにく)/Incarnation」と呼ぶ。霊界/精神界を旅立ち、鉱物界に至る。

 

霊界/精神界においては、純粋思考だけがあり、人間の自我は純粋思考だけで霊的な外界に対応することができる。

 

受肉を契機に肉体を纏い、鉱物界に生きるようになると、人間は自分の周りに、自らと同じように物質的な被い(おおい)を纏って様々な姿形(すがたかたち)をとる無数の他者(es/それ)を見出す。地上の世界において、人間は自らの内と外の世界に、鉱物界、植物界、動物界、そして人間界を見出す。

霊界/精神界は、それら他者(es/それ)の背後に、いわば隠れており、感覚の眼を以ってしては見ることができない。霊界/精神界は、超感覚的な世界であって、”霊的な感覚”によってしかとらえることはできない。

 

この地上の世界に誕生した人間は、霊界/精神界という本来の故郷から切り離されたという心許なさ(こころもとなさ)を自らの魂の内に秘め、その地上生の間、”望郷の念”を抱き続ける。

このような感情を、”根源的な疎外感”とか”不全感”と呼ぶことができる。誕生した以上、そう簡単には霊界/精神界には戻れない。これから生きていかなければならない地上の世界は、ままならないことだらけである。無数の他者(es/それ)と対峙し、生き抜かなければならない(衣食住)。

 

”・・・すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」”(マタイによる福音書 第4章)

 

人間の由来は神(霊界/精神界)にあるが、地上の世界においては”パン”を食べずに生きることはできない。これは、地上を生きる人間の宿命である。”衣食住”の問題は、一生ついてまわる。

 

そして、人がこの問題に対峙する際に利用するのが、”イメージ”である。

霊界/精神界において人は、霊的外界に純粋思考によって向き合う。地上の世界においては、物質的な外界と向き合わなければならない。このとき人は、イメージを用いる。イメージを媒介にするのである。

 

鉱物界の時間/空間という枠組みの中で生起する様々な事象を、人はイメージを媒介にして観察し、把握する。イメージというものは、観察している当の人間が、自らの想像力によって生み出すものである。それはあくまでも虚構/フィクションであり、いわゆる科学性や客観性を主張し得る性質のものではない。

しかし、人間はイメージなしには自分の周りに存在しているかに思われる諸々の事物/事象(他者/es/それ)に関わることができない。

 

原理的には、イメージの契機は人間の肉体に備わる諸感覚器官にある。

(物理的な事柄がいかにして感覚という心的な事柄へと変容するのかという問いに、現代自然科学は今のところ答えることができないでいる。)

諸感覚器官がとらえたものをもとにして、私たちは自らの魂の内に様々なイメージを生み出す。

私たちの周りに広がる物質的外界で私たちが遭遇する諸々の他者(es/それ)が、まさにイメージの形で現れる。だが、それらのイメージは、私たち自身が生み出したものだ。イメージの虚構性という性格を考えたとき、だからそれらの(すべての)他者(es/それ)は、実際には存在しないものだ、と主張するのは、私たち自身の常日頃の生き方と矛盾している。

私たちは、まさに日夜、他者(es/それ)と対峙し続け、そのような他者によって苦しめられ、助けられ、愛し合い、協力し合い、・・・要するに他者なしには生きることができないということを身をもって知っているのである。

このような私たちの現実を無視すると、人はいささか救いようのない自己否定・自己矛盾に陥る。

 

つまり、私たちはイメージの虚構性という危うい性質の向こうに、何か本質的なものの微かな(かすかな)しかし同時に確かな形姿(けいし)を見ているに違いないのである。

私たちはイメージを媒介にして、他者(es/それ)と向き合う。他者(es/それ)はほとんどの場合、簡単には私たちの言うことを聞いてはくれない。私たちはそれら他者(es/それ)の正体を実のところ見抜いていない。たしかにイメージを媒介にして、それらの姿形(すがたかたち)を目の当たりにしているかのように思い込んではいるが、そのイメージが時に突如変化し得るということも体験する。思っていたのと違う、ということが日常的に起こってくる。

 

他者(es/それ)の現れ、他者(es/それ)という現象のこのような不確実性を回避するために、人間はイメージを先鋭化・複雑化する道を歩み続けてきた。この歩みの一環として、科学を位置づけることができる。

何らかの感覚的イメージと言語的イメージを想像力を膨らませて生み出し、思考して無数の文脈イメージを作る。

学者も宗教家も文脈イメージを作る。学説や信仰告白の類はすべて文脈イメージである。

私たちの誰もが、日々(ひび)時々刻々(じじこくこく)、文脈イメージを作り出し続ける。私たちの魂の空間は、まさにイメージであふれているのである。そして、社会もまた。

 

私たちの低次の自我の正体は、無数の文脈イメージの集積である。私たちは、これらの文脈イメージと一体となっている。

 

私は、成長する過程で、親の振る舞いや言動から自らの文脈イメージを作る。友人とそれぞれの文脈イメージを交換する。本を読み、その本に記されている文脈イメージを吸収する。学校でも種々の文脈イメージを学ぶ。大学の講義からそれまで知らなかった文脈イメージと出会う。就職先の文脈イメージに従い働く。妻の提示する文脈イメージがなかなか理解できず、関係がぎくしゃくする。妻は妻で私が当然だと思っている文脈イメージに違和感を感じて、私のことを受け入れることができない。

親が年老いてから、あるいは亡くなってから、私が当然のように受け入れていた親由来の文脈イメージに距離を置くことができるようになってくる。

だがいずれにしても、私が文脈イメージに囚われていることに変わりはない。

 

 

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キリストの復活は、物質に対する霊/精神の”勝利”を意味している。

だからと言って、物質と霊/精神を対立するものと固定化して考えるべきではない。