fragment | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

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純粋思考においては、対峙している他者が、ある時突然、「汝/あなた/Du」としか呼びかけることのできない唯一無二の存在/霊的存在であることが、明らかになるのである。

「それ/es」が「あなた/Du」へと変容する。その時、「あなた/Du」の顔には、必ずや得も言われぬ笑みが、すべてを許容し包み込むような笑みが浮かんでいるに違いない。

 

変容/transfiguration ~ 「それ/es」 ‐ 「あなた/Du」

 

人間が何らかの他者を、「あなた/Du」とみなす時には、その他者は、霊的ヒエラルキアの位階において、必ず人間/自由の霊以上の位階にあると考えなければならない。

 

他の自然存在(鉱物、植物、動物)や芸術作品に代表されるような人間の手に成る造形物としての「それ/es」もまた、・・・

 

例えば、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番、モーツァルトの成した純粋思考(の産物)であるが、この作品に向って私は「あなた/Du」とはやはり呼べないと思う。

 

少しややこしい感じがするので整理してみよう。

この曲は(もちろんすべての芸術作品が、以下に述べる”文脈”を多分に共有していると思うのだが)、物理的には譜面としてしか存在していない。そして、例えばユリア・フィッシャーがロンドン・フィルと共にどこぞの会場でこの曲を演奏した時、その時にだけ音響となって”現象/phenomenon”する。

もし私が何らかの形で、その演奏を聴くとしたら、私の魂においてモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番を享受するという”芸術的体験”が、言い過ぎかもしれないが、ちょうどモーツァルトの魂にこの曲の純粋思考が去来したのと同様の出来事が生起するのである。

 

今、YouTubeでアンドレスオロスコエストラーダ指揮によるhr交響楽団の演奏するベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を聴いている。すばらしい演奏である。私の魂の空間に、ベートーヴェンの自我が成した純粋思考の生産物である交響曲が現れている。

私の魂の内に現れ、私の自我が今まさに享受しているこの交響曲に対して、「あなた/Du」と呼びかけることには抵抗を感じる。

この芸術作品(交響曲第6番「田園」)を介して、ベートーヴェン(の自我)に対して、「あなた/Du」と呼びかけることはできる。傑作を生み出してくれたことに対して、彼に感謝し、そして尊敬の念を捧げることができる。

YouTubeの画面に目を向けると、この交響曲の終楽章の終わりのところで、指揮をしているアンドレスオロスコエストラーダの顔にも、作曲者に対する感謝と敬服の念とこの傑作をhr交響楽団の奏者たちと共に演奏する喜びが見て取れる。

聴衆を含めて、演奏の行われたフランクフルトの旧オペラ座にこの時集った誰もが、一種の「聖霊降臨」を体験したことは間違いないだろう。