文脈イメージは、道のようなものである。
それは、ある出発地点から何らかの目標に至るための移動経路であり、それ自体が出発地点や目標にもなり得る。そうした道のようなものをイメージできる。
鉱物や植物は(自力では)移動しない。
動物は、本能のままに移動(行動)する。
動物のように本能のままに動くことができない人間は、本能の代わりに文脈イメージに頼る。けもの道ではなくて、・・・
現代に生きる人間は、神のような俯瞰的視野(ふかんてきしや)を持つことはできない。
一つの道を選択し、その道を行き始めると、他の道は見えなくなる。
何らかの文脈イメージを見出し(作り出し)、それを生きる指針にすると、他の文脈イメージを理解し受け入れることは困難になる。
これは、一時には一つの対象しか目に入らないという人間の意識の特性に由来する。
そして同時に、ここにはイメージが持つ強い引力のような魔術的なものが作用している。イメージと魂との親和性は極めて強い。魂のいわばスクリーンである意識に、イメージはまるで実相のように現れるのである。
イメージが魂の内から生み出される。生み出しているのはその魂の担い手である人間自身だ。
魂の内から生み出されてきた諸々のイメージたちは、それから、あたかも外から来たかのように魂には見える。
イメージは、時々刻々その姿と様相を変化させる。
人が何らかの特定の文脈イメージを自らのものとする時、・・・そうした文脈イメージこそが人間の低次の自我の正体である・・・それまでは見えていなかったイメージが見え始める。
他者(es/それ)が新しいイメージを纏って、姿を現す。
文脈イメージ次第で、ある他者(es/それ)は見えなくなり、別の他者(es/それ)が出現したり、新たな意味を付与されたりする。
いずれにしても、それによって人間が神のような俯瞰の視座(ふかんのしざ)を獲得するわけではない。
夢を見ている時、人は自分が夢を見ているとは思わない。その夢を現実だと感じているのである。
目覚めて初めて、それが夢だったとわかる。
文脈イメージの働き方は、夢の場合と極めてよく似ている。文脈イメージを白昼夢に喩えることは適切である。
しかし、文脈イメージを失っては、人は日常生活を営むことはできない。
同時に、夢を見続けていては、鉱物的なこの地上の世界を生きるに当たって、思いもかけぬ危険の数々に晒され続けることになる。