純粋思考は、まさに劇薬である。
使い方を誤ると、人は命を落とす。また、他者の命さえ奪う。
純粋思考を続けていると
共感と反感が入れ替わり立ち替わり、そのめくるめく循環/サイクルの速度が亢進されてくる。
ちょうど空気の濃度が密になってくる感じだ。
対象意識の構造的な特性から、自我は一時(いっとき)に一つの対象にしか注意を向けることができない。
人は一度に複数の対象に目を向けることはできないのである。常に一つである。
このとき人は自らの魂の内で、何をしているのだろうか。
人は注意を向けた対象を、一つ一つ、ゆっくりとあるいはせっかちに、ピックアップしているのである。
自らの魂/意識の中に、それらの対象を置いていくのである。
複数の対象が、ランダムに置かれている(並んでいる)。
この時、注意しなければならないポイントがある。
それはいわば、意識という魂の空間/スクリーン上にランダムに並んだ一つ一つの対象には
それらをピックアップした(選んだ)人間の感情要素が付随しているということである。
そのような感情要素を、共感(原愛 Ururliebe)/反感(原憎しみ Ururhass)という二つの原理的要素に還元して考えることが大切である。
つまり、それぞれの対象にはそれぞれ濃淡のある共感(原愛 Ururliebe)/反感(原憎しみ Ururhass)が分かちがたく付着しているというイメージだ。
それらの感情要素が、もともと外なる対象自体に備わっているのではなく、人間の方からくっつけたものである(主観である)ということを忘れてはならない。
まずは、反感(原憎しみ Ururhass)の方が働く。なぜならば、共感(原愛 Ururliebe)よりも認識的性格を強く持つからである。
どういうことかと言えば、外にあるものの方が観察しやすいからである。
だから、人間が自らの内なる魂/意識/主観を明確に正確に観察しようとすれば、自分の魂/意識/主観を外に出さなければならないのである。つまり、主観が客観に変わらなければならないというわけなのである。
一体そんなことが可能なのか?
魂が、魂自身を二つに割って、その一つを外に排出/排除/除外するのか?
そのような事態を、イメージ化できるだろうか?
外なる認識対象であれば、もともと外に存在するのであるから、外にわざわざ出す必要はないし、外のものはもともとうちには存在しないということだから。他者としての鉱物界・植物界・動物界・人間界は、内には存在しない?
しかし、ここでよく考えてみてほしい。
そのような外なる自然(人間界も含めた)の世界のイメージ、つまり、私たち人間が自然の中を生き、他の人間たちと善かれ悪しかれ、にぎやかに生活を繰り広げている、そのようなイメージを、私たちは自分たちの魂の中に、いつも見ているということを。
そのような私たち自身の地上での生活を夢に見、目覚めている間も、思い描いたり空想したり、つまり私たちの生活をイメージ化するという営みを、四六時中続けているのである。こんな当たり前の事実を、もしかすると私たちはうっかり忘れてしまったのかもしれない。
もうお気づきだろうと思うが、生活 Leben をイメージ化するというこのポイントが、おそらく最も大切なのだ。
外なる自然が、内(私たちの魂の中)にもあるという事実に気づくこと、この照応 Correspondence を改めてイメージ化して、認識し了解すること。
この場合の認識行為は、同時に創造行為/芸術であるというところに、ポイントがある。
まず、外なる対象あるいは人間の内から外に出された(これを自己疎外という)
ここでもテキスト/文脈の重層化が見られるのか・・・
*今わたしが行なっている以上のような思考プロセスには、思考の対象/思考内容/概念に対する私の強い興味/関心が込められている。この強い興味/関心は、愛と同種の感情形態であることは言うまでもない。認識論的な視点に立った時には、この愛に似た感情は、直観と呼ばれる。だから、直観力に優れた人は、言ってみれば、愛の人なのである。
純粋思考とは、この直観という視点から見たときには、自らの意識/魂のスクリーン上にランダムに広がった共感(原愛 Ururliebe)/反感(原憎しみ Ururhass)に満ち満ちた諸対象を、直観というフィルターによってふるいにかけつつ、高次の自我/精神/霊に則った判断基準に従って、並べ直し、マッピングしていくという意識魂による認識行為であると確認することができる。
観察する人の極めて主観的な感情要素である興味/関心(Urliebe)に由来する直観という超主観的な認識行為。
だから、思考する人の個性を形成する大きな要因である、その人の興味/関心に、そして言ってみればその陰の側面としての無意識的な負の感情要素である疎外/差別に、影響される可能性/危険性を、常に孕んでいるわけである。
この時、興味/関心を「あなた Sie/du/you」、疎外/差別を「それ es/it」と呼ぶことができる。いや、そのように特徴づけるべきなのだ。
認識行為というものの根源的性格として、文節化という根源的切断行為 それは創世記が描くところによれば、この地上世界というものは神の切断行為を通して誕生した 攻撃性/暴力という概念がありそうである。
何事にも興味/関心がなくなると、特に愛すべき人から去られてしまった時に、人は落ち込み、生きる希望を失い、鬱に入るのである。そのような「鬱」という極端な負の感情の蔓延が、ネガティブな思考習慣/価値観をつくり出すまでに至れば、それは虚無主義/ニヒリズムになる。「いじめ」にシンボライズされるような社会悪/社会癌は、元を辿れば、私たちの魂の内でネガティヴに進行している自己疎外に端を発しているのである。
自己疎外のプロセスを、ここでもう一度、特徴づけたい。
私たちの周りの世界(鉱物界・植物界・動物界・人間界)は、その世界に存在している諸々の存在の個々に、私たちが何の興味/関心も向けなければ、いわば無に等しい、つまり完全に「他者/よそ者」として全く静的にたたずんでいるだけだ。私たちは、それらの「他者/よそ者」に気づいてないのである。
だから、純粋思考というものを、もろ手を挙げて全面的にナイーブに歓迎しているだけでは、はっきり言って、とても危ないのである。
*ここで、改めて確認しておいた方がよいことがある(マッピングを誤ると、思考が混乱するからである)。それは、そもそも、意識魂/悟性魂/感覚魂とはどのように特徴づけるべきなのかということである。
まず、感覚魂
次に、悟性魂
過去に由来する魂 資本主義的魂 正確には悟性魂/心情魂であり、古い価値観(権威主義的な硬直した思考習慣/もはや柔軟性を失った感性)
最後に、意識魂
*考える時間と余力が今はない。近いうちにまた思考を進めます。(ST)
***