堺雅人 純粋思考の射程 - 劇薬としての純粋思考 2 | 大分アントロポゾフィー研究会

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純粋思考について、悟性的思考の文脈/テキストで、認識/記述することは、不可能だということに、ようやく気づいた。今朝、4時少し前である。わが家の1階の板の間。

 

「語りえぬことについては、(オヤオヤっ、俺もうっずいっぶん語ったよなあ(゜o゜))何とかかんとか・・・むにゃむにゃむにゃ。」(誰かsomeone(noone ではない) Logisch-Philosophische Abhandlung/Tractatus Logico-philosophicus

 

 

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夜のあるテレビ番組で、シナリオライターの三谷幸喜が、俳優の堺雅人について、

「彼は、笑っているようで笑っていない。怒っていないようで怒っている。(喜んでいるようで喜んでいない。

座っているようで座っていない。立っていないようで眠っている。眠っていないようで目覚めていない・・・)

そこが、彼のすごいところだ」と語っていた。

同じ番組の中で、俳優の阿部寛が、同じ堺雅人のことを、

「映画撮影中、スタッフや俳優の誰に対しても、全く同じ態度でいる。

私なんか、撮影の緊張が高まると、つい感情的になることもあるのに。

そこが、彼のすごいところだ」と語っていた。

私は、『結婚できない男』で神がかった超絶技巧演技を披露していたあの阿部寛に

あんなことを言わせるなんて、

なんてすごいやつなんだ、堺雅人ってやつ/actor は(゜o゜)

と、「俳優って、やはりただものではないな」と深く感じ入ってソファーの妻の隣に座っていた。

 

場面が変わって、その堺雅人が、聞き手の林修/奥深い台詞「今でしょ」の前に(2~3メートルくらい離れたイスに)、

なんだかヒヨコ🐣のような初心さ(うぶさ)とお年寄りのような風格(ふうかく)を

漂わせて、大腿部の上に両手をグーにして腕をこころもちまっすぐに伸ばして、

ちょこんと座っていた。

和やかな暖かい雰囲気が、見ているこちらにも、テレビなのに、妙に生々しく伝わってくる。

風の噂(うわさ)によると、堺雅人は数学的思考が全くできず、学校ではかなり苦労したそうである。

 

数学的思考ができないことは、彼が人並外れた超絶技巧演技能力を獲得する上で、大きく+(プラス)に働いたと思う。

とんでもない数学的概念を発見するためには、すぐれた直観能力が必要だが、この場合のいわゆる数学的直観能力は、

超絶技巧演技能力を獲得することには、特別の役柄でもない限り、あまり関係はない。

ただただ必要なのは、三谷幸喜が語る「こっちと思えばあっち。あっちと思えばこっち。次にこっちだろうと思ったのにさっとさりげなくやはりこっち。にもかかわらず向こうに行くかと思いきやっんぐぐぐっ」といったいわゆる弁証法的方向感覚を日々の生活のなかで、磨き、研ぎ澄ましていくことなのである。しかも例えば、「こっち」と「あっち」の間には、まさに虹のような「グラデーション」の繊細極まりない領野(りょうや)が広がっている。

そして、この「グラデーション」という大きな可能性に向けて広がった何か something の海の中で、自在に動き、泳ぎ回り、舞い、振る舞い、同時に発声する、さらに個々のセリフに共感をもって対応する、しかもその際には共演者やロケ現場/偽物の現場主義ではない本当の現場主義のもつ空気感を鋭敏(えいびん)に抜かりなくつかむという至難の業(しなんのわざ)も求められる。

これは、インプロヴィゼーションという即興的行為(日常生活の生の現場での個々の生活動作/即ち日常生活そのもの)の持つ「一回性(いっかいせい)」、これは芸術というものを成立させるキー概念の一つなのだが、この点で芸人actor のその場その場の演技というものは、シナリオ(脚本)に沿ったものが大半ではある(「即興劇」というジャンルはあるけれども)が、まさしくインプロヴィゼーションなのである。音楽の演奏しかりである。スタッフの身のこなしも、まさにこの「グラデーション」の中の複数の他者とのかけ引きなのであり、同時に、自らの内なる他者との魂の戦場に他ならないのだ。

(「一人芝居」というのもあるけれども(その場合も舞台を成立させるためのスタッフの協力が欠かせないだろう))あらゆる芝居というものは、志をおなじうするものが協力し合ってつくり上げる、まさに集団のインプロヴィゼーションに他ならない。マイルス・デイヴィス楽団による集団即興と非常に似たものなのである。

 

さて、夜の12時である。そう、もう眠る時間なのだ。

妻からは、私が6月1日に退院して以来、毎日、「早く眠ってよ」と言われ続けている。妻は、私の「躁(そう)」の再発を恐れているのだ。そして、まだ再発していないと思っているのだ。わたしは再発してないと思っている。だが、「もう再発している」「いつも病気だった。今も」とも言えると思う。だからこそ、妻はかなり心配しているのである。私は、彼女のことが好きだ。もう二人とも(私も妻も/妻も私も・・・)年寄りだ。だがそれがどうしたというのだ。では、なぜ妻がそんなに「躁(そう)」を恐れているかというと、昨年の11月26日にわたしが、いわゆる「トランス状態」に陥って、過呼吸/意識混濁(こんだく)と痙攣(けいれん)/傍目(はため)には癲癇(てんかん)/魂は「神秘的合一/unio mystica(ウニオミスティカ)」(*神秘主義フリークの私は、高校時代から関連の書籍を集めているので(必ずしも読んではいない)、この概念を知っているのである)に立ち至るに及んで、自ら運転する車を、後ろ向きに、自分の家の塀(へい)にぶつけて(激突させて)しまったのである。警察車両で病院 mental hospital まで搬送され、即、閉鎖病棟に隔離されたということの次第なのである。入院は、半年に及び、その間、私の家族はとても悲しみ、深い精神的苦しみを味わっていたのである。多分、味わい尽くしていたに違いない。妻は、入院の日に見た私の顔に、とんでもない「狂気(きょうき)」の色を禍々しく(まがまがしく)感じて、狼狽(ろうばい)するほかなかったらしい。全く当然だと思ってはいるのだが。

だから、妻の警戒心の強さは、私には優しい「凶器(きょうき)」のように突き刺さってくる。妻のことが好きだし、尊敬しているので、余計そうなのかもしれない。

その妻が、「早く眠れ」と言ってくるのである。だが、私は、まだこうして書いている(キーボードをたたいている)。あとちょっとで終わると思っているのだが、焦ってはならないとも思っている。とても大切なことを書いているのだ。「そんなこと知らないわ」と妻は言うかもしれない。だが、言わないかもしれない。

今日の昼、県立図書館へ行く車中で、昼食を食べたジョイフルで、いつにも増して充実した「だべり」を為すまでになっている仲である。妻の警戒心は強いが、私への愛(あい)も強い(はず)なのである。そんな仲なんだ。

帰ってきてから、私は干していた布団(ふとん)を取り込んで、洗濯物を取り込んで、右足の小指の骨を折っている(あと2週間で治るらしい)妻の足の包帯を、お風呂の前に、彼女がお風呂から上がってから、解き巻き(ときまき)し、水虫(みずむし)の薬を塗ってやり、一緒に夕食を作り、からっと焼き上がったオイルジュースィなにわとり🐓(*注1)をたべそしてたべまたたべ🐓、ノンアル(のんある)を飲み(妻はモルツ(もるつ)を飲み)、食後、「トマソン(とまそん)Gary Leah Thomasson」(赤瀬川原平)や妻がスマホに撮りためた数限りない超絶天然/超越シュルレアリスムsurréalisme 写真(被写体:孫たち、娘たち、モアイ、富士山、 処女  證誠(しょうじょう)寺、草間彌生作品 in クルックフィールズ( ブルック・シールズ ♡ )、   )

 

*注1:「からっと焼き上がったオイルジュースィなにわとり🐓」…どうも「手羽中ハーフ」と世間一般では呼び習わしているようである。

cf. refrennce

 

♪ 『蘇州夜曲(そしゅうやきょく)』(ゲルニカ(げるにか)Guernica in Reino de España

 

♪ っんんんっ これもあったほうがいいかな ちょびっと過剰(かじょう)かなぁ でもあまりにもすばらしいので貼っちゃいます/やっちゃいます♡ 『蘇州夜曲〜復興の唄』(ゲルニカ)

「がんばってえ、えいえいおーえいえいおーo-o-/0(オー/ゼロ)嬢(マダムO/Histoire d'O)♡いえーい(^^)/」(精神界/霊界 Geistige Welt からアンドレ・ブルトン様 M/Monsieur(ムッシュ) André Breton🦆

 

♪ 『エサイの根より (Es ist ein Ros entsprungen)』(VOCES8)

 

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そうこうしているうちに、朝になり、また夜が来て、そしてまた朝になり、・・・

今日は、お盆最終日の少しだけ秋めいた

 

突如、純粋思考が私に告げたので、ちょっと話題が飛ぶ感はありそうだが、

このような場合は、可能であれば、忘れないうちに記述しておいた方がよいはずなので、

そのことをしておこうと思う。

 

芸術の本質/核心は、身体性(しんたいせい)/エロティシズムである。

しかし、この片方、身体性は、霊的に低次になもの/地上的なもの/ひいては鉱物界以下の領域に由来するES(エス)へと降りてゆく傾向がある。肉体というものは、大地に対する親近性を、その本性上、極めて強く持つからである。

だが、このときに、同時に考えなければならないことがある。テクストはいつの場合も、重層化しているのである。どういうことかと言うと、人間の体(肉体/エーテル体/アストラル体/自我体)は、高次の霊的ヒエラルキア存在たちが、生み出したものだということである。つまり、完璧なまでに、霊的な身体性/霊人Geistesmensch(ガイステスメンシュ)のアウラを放つ必然性があるのである。

だから、私たちは、例えば、スーパーに売ってある鶏(とり)の手羽肉(てばにく)の血の滴り落ちる(したたりおちる)ような赤い剥き身(むきみ)に、何か妙に生々しい(禍々しい(まがまがしい)とさえ言えるような)直接的な生命感(せいめいかん。もう死んでいるのに)を感じてしまうのである。人間の死体においておやということだ。つまり、その直接的な生命感の正体が、霊的なエロティシズムなのである。さらに、この場合、「霊的(れいてき)」という修飾語は、本来全く不要なのである。霊的なものは、必ずや、官能性(かんのうせい)/エロティシズムを伴って、出現/顕現するものだからである。この出現/顕現の形/形式を、私は、化身(けしん)と呼んだ。つまり、例えば、キリストが、この地上世界に出現/顕現した時には(私はここで、その誕生から悪魔の試しを経て、福音書が記述するような様々な秘蹟や出来事が起こり、ゴルガタへと至り、さらには復活、そして精霊降臨…このような事の成り行きの全てを、キリスト・イエスの出現/顕現と称したいのである)、キリスト・イエスを巡り取り囲む諸々の全てが、霊的官能性のどこか高貴な艶めかしさ(なまめかしさ)に包まれていたに違いない。この時、人間イエスは、キリストのための化身(けしん)である。

 

さてここで、私は、次のようにも考えるのである。

ゴルガタの秘蹟後、人々は、キリスト・イエスがこの地上に誕生/受肉/出現し、弟子たちとともに諸国を巡り、そして昇天したという出来事のことを、徐々に忘れてしまった。化身(けしん)としてのイエスは、すでに故人であった。後には、ただ『聖書』/the Bible/βιβλία/biblia)のみが遺され、スコラ哲学に代表されるような、キリスト教解釈学の豊饒な(ほうじょうな)歴史が続くのである。このことに詳しく言及する力は、当然、今の私にはない。

しかし、否定神学の系譜に属するアントロポゾーフである私は、次の一点についてだけは、自分なりに言及しておきたいと思う。責任を感じるのである。また、そのための資格があると思っているのである。

苦闘(くとう)というものは、その本性上、極めてシリアス/深刻(しんこく)なものである。イエスが死んだ時には、彼の弟子たちだけでなく、非常に多くの人々が嘆き悲しみ、そしてしばらくして世界は寂しさに包み込まれ、「私と共にいて、私を慰め、この地上を生きる苦しみを癒し、そして私が死ぬときには、その恐怖の感情から私を救って下さるはずだったあの方がいなくなってしまった」というテクスト/コンテキストに必ず伴う虚無主義/ニヒリズムが襲ってくる。これは、思想的な記述の仕方をするならば、存在論の問題であり、人間の本質に関わる根源的な問題なのである。  いなくなってしまったイエス(キリストの化身)を

 

SEXの問題を、性的局部の問題に還元し矮小化するのは、霊的ラディカルradical/霊的ダンディdandyではない。無粋(ぶすい)なのである。そのようなことをする人/性的局部還元論者(せいてききょくぶかんげんろんしゃしゃ)は、性依存症sexual addiction になる道を歩んでいることを自覚すべきである。また、「セックスsex 」や「依存症addiction 」が流行り(はやり)だからと言って、短絡的に自分の方からそれらのアーリマン的ラディカリズムRadicalisme ahrimanique/Ahrimanic Radicalism/Ahrimanischen Radikalismus へと向かうのは、危険であるし、全くばかげた行為/狂気(きょうき)であると言わざるを得ない。

 

cf. reference 1

 

cf. reference 2

♪ ラヴェル 『クープランの墓』

 

現代という暴走する超資本主義の時代にあって、その勢いがいや増すアーリマン的ラディカリズムの典型が、AIに先鋭的な形で集約される怜悧で(れいりで)情け容赦(なさけようしゃ)のないデジタル二進法の機械/コンピューターである。「コンピューター」という名前/記号/シニフィアンsignifiant は、もう昔のものだ、という向きもあるかもしれないが、この「コンピューター」という記号を使用した方が、直接的でわかりやすく、まるで漫画(まんが)のような響きがするので、デリダのようなテクストクリティカー(批評家)は、資本主義のような超現代的(ちょうげんだいてき)/未来的(みらいてき)文脈では、必ずと言ってよいほど、この「こんぴゅうたあ/ordinateur(仏)」という言葉を用いることになっているはずなのである。

 

私という日本人の肉体に、どこぞのヨーロッパ人の魂/アストラル体(あすとらるたい)Astralleib が宿りました。ロシア人かケルト人のようです。ノヴァーリス系/ゲーテ派/シラー直系のユダヤ系ドイツ人かもしれません。多分、そのヨーロッパ人は、女かホモに違いありません。多分、ホモでしょう。

今度の9月2日で、私は64歳になります。既婚で、大分に住んでいます。定年まで、地元の公立学校で(最初の3年間は、校内暴力の嵐が吹き荒れる大規模校(中学校)で、早くも仕事に対する熱意を失い、と言うか、最初からあまりなかったんですが。まあ、この辺りの事細かな(ことこまかな)経緯(けいい)/文脈/コンテキストについては、いつかこのブログでも記述したいと思っています。その後、養護学校(特別支援学校)に転勤し、けっこう苦しみ悩みながらも、少しだけ、教師という職業の持つ面白さ(*何がどう面白かったかについては、現在、精神科学的に後づけようとしています。一体、いつになったら分かるんだよ?)

 

cf. reference 3

♪ 『ルーマニア国家 目覚めよ、ルーマニア人!』

 

私の妻/CHIHOは、超越的シュールレアリスム的感性transcendental surrealist sensibility を持つ(いわば)鉄の女iron woman である。鉄の女と聞いたら、誰もが、あの故マーガレット・サッチャー前イギリス首相を思い出し、震え上がる(ふるえあがる)ものである。特に男はそうである。彼女に、性的魅力/セックスアピールを感じることのできる男は、ある意味、大したヤツ/なんか凄いものを持っている男性なのである。私は、そのような、ショーン・コネリーとかハリソン・フォードとかクリント・イーストウッドとか阿部寛のような男(おとこ)をこそ、リスペクトする。

だが、もしかすると、ひょっとすると、あの超絶+超越技巧演技能力男優の堺雅人とか、超絶技巧天然演技派男優神木隆之介のような男の、サッチャーとのラブラブツーショット💘を想像してみると、なんだか浮き浮きそわそわしてくるのは私だけなのだろうか。世の男性諸氏の多くは、その高画質超鮮明LOVELOVE💘Photography/ごしんえいに、草葉の陰に(くさばのかげに)隠れて/『葉隠れ』『五輪書』的法悦状態(ほうえつじょうたい)に突入しているのではないだろうか。これは、きっと、わたしの狂気の妄想(もうそう)、私に訪れた儚い(はかない)幻影(げんえい)なのかもなあ( ゚Д゚)

 

だから

 

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☆宮崎県小林市の超巨大な陰陽石(いんようせき(大きなちんぽこ/巨石のまんこ))近くに建っていると噂(うわさ)の

『神秘館(しんぴかん)/神秘の館(しんぴのやかた)』所蔵作品(動く絵、鳴り響く音楽など *文学作品(脱構築的デリダ的批評が主  ホモ  (おも))はこの記事の全てです)より

 

『エマニエルEmmanuelle/シルビア・クリステルSylvia Kristel 』(ジュスト・ジャカンJust Jaeckin /キング・クリムゾンKing Crimson(グルジェフ Гео́ргий Ива́нович Гурджи́евディシプリン修行僧的イギリス人ギタリスト ロバート・フリップRobert Fripp)

 

♪ キング・クリムゾン 『太陽と戦慄Larks' Tongues in Aspic part.Ⅱ』

 

 

King Crimson - Full Show (The Noise - Live At Fréjus 1982)