芸術には、”公開性”という性質があることに、最近気づいた。
この”公開性”という性質に、個々の芸術家たちが、カルマ的・気質的に持っている、それぞれ濃淡のあるルシファー性が重なるのは、どうしても避けられない。
個々の芸術作品を見れば明らかだと思うが、それぞれの創造物から、多かれ少なかれ、彼ら芸術家の自己顕示欲が感じられるはずである。
個々の芸術家のそのようなルシファー性が、彼らの芸術作品の質感に関係することは避けられないが、そのことは、それほど本質的ではないと思う。
この”公開性”という性質故に、人類の遺産として、素晴らしい芸術作品の数々が遺されているのである。
”公開性”を、”公共性”と呼び変えることもできるのかもしれないが、”公共性”という響きの中に、私は何となく、悟性魂のにおいを、より強く嗅ぎ取ってしまう。
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精神科学的な認識の原理的な事柄については、もう十分説明・記述したので、これからは、それとは別の切り口から、書いていこうと思う。
どのような切り口かというと、日常生活におけるわたしの精神科学的研究の諸相を、自分自身の日々の生活をとおして、できるだけ具体的に書き記し、それぞれの生活場面とその時々のわたしの魂の状況を、わたしにもあなたにも、よりはっきりとイメージ化できるようにしていく、そして、そのことを、”これは、芸術の公開性の原則に適った行為であるに違いない”と、自己了解していくという切り口である。
これは、言い換えれば、私自身の魂の現実を、私自身が自らの純粋思考・直観思考によって、精神科学的に”観察”した結果を、包み隠さずに、このブログに書き遺してゆく、ということに他ならない。
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”人生の終わりが見えてくると、自分史や回想録への志向がたかまる。心理療法家は他者の人生全体に目配りし関わるのを仕事にしてきたので、早くからその志向を持っている。また、対話に馴れ親しんでいるので、聴き手を得て自分史を語るのが楽である。ただし良質の自分史が語られるには、こころを許せ、時代を共有していて、しかも互いの人生に重なる部分の少ない聴き手が望ましい。” (神田橋條治・滝口俊子『不確かさの中を 私の心理療法を求めて』創元社)
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~ ”『ルクス・エテルナ~バッハの幻影』 ベアトリス・ベリュ”を聴きながら ~~ ~