2023.8.1-2 ST | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

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”全体”に憧れる者は、ロマン主義者に、

細部にこだわる者は、自然主義者に、

そして、両方の要素を兼ね備えると、古典主義になる。

 

もちろん、完全なるロマン主義者、完全なる自然主義者は、まず見かけない。

完全なる古典主義者は、もしかするとある程度存在するのかもしれない。

いやいや、古典主義について、そのように特徴づけるのは、やはり間違いかもしれない。

なぜならば、古典主義者というものは、ロマン主義の要素と自然主義の要素を、程よく併せ持っているはずだからである。

 

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芸術は、多くの場合、光り輝くようなルシファーの雰囲気を纏っている。

 

芸術家が、自らの魂の内に、内的平静の態度を養っていくにつれ、このようなルシファー的な要素は次第に静まっていき、その作品は古典主義的なものになってゆく。

 

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芸術には、”魔術性”がある。

 

この”魔術性”の作用機序を言葉で説明しようとするや、その魔術は効き目の大半を失ってしまう。

 

なぜならば、芸術は意識魂以上の霊的な魂が生み出すのに対して、言葉による説明は悟性魂に由来するからである。

 

わざわざ芸術の姿を貧相なものにしてしまう必要もないだろう。

それは野暮というものだ。

 

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~ 日常の風景より ~

 

例えば、妻の前で私が時々およそ二秒間舞ってみせる ”踊り(Tanz)” のようなものは、原芸術である。

妻が、料理を作っているときに、ふと口ずさむ ~”わたしっは~かめさっん~かめさんっっよ~~” という自作の歌も、原芸術である。

 

このいずれのケースにも、ユーモアのセンスが、感じ取れる。

しかもここに見られるユーモアには、力んだところがないのである。

 

例えばキティちゃんは、猫のはずなのに、果てしなく人間臭いその大人びた幼さといかにも人工的なかわいらしさの中に、~キティちゃんは、ハーモニーランドで毎日踊っているし、お客さんと握手もしている・・・ユーモアのニュアンスを柔らかく優しく醸し出している。

そして、その優しいユーモアを纏ったキティちゃんの古典主義は、年を追うごとに熟成されているのである。

だから、「キティなんか、ばからしい」とうそぶく私のような年寄りは、無粋だと思われてもしかたがないのである。

そういうわけで、私も近頃、少しだけ考えを改め、孫と一緒にハーモニーランドに遊び行っても、キティちゃんやその仲間たちを軽蔑したりしないように、魂の内的平静を保つ努力をするようにしているのである。

 

実際、キティちゃんと田中泯さんには、予想外の共通性を見出すことができるのである。

 

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現代という意識魂の時代においては、他者が両義的にダブルバインド的に、わたしやあなたの隣に立っていたり座っていたりする。

だから、わたしやあなたはそのような他者を前にすると、どうしてよいかわからず、体が固まってしまうのである。

そして、わたしやあなたはそのような他者にとって、同様に両義的にダブルバインド的に感じられているはずなのである。