空気なんて読めない -8ページ目

空気なんて読めない

ozonの試験的公開日記

 ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」をDVDで見た。なんとなく落ち着かない気分になって、夜の街を横切り、ネットカフェに着いた。漫画を少しばかり読んでから、サマリアのあらすじを書いた自分のエントリーを少し読んでどうしようもなく落ち込んだ。国語辞典を買おうと思う。正確な表現が必要だと思った。気持ちが伝わればそれでいいなんて通用しないと思った。例えば、このブログを見かけた人がl、気のつかないところでショック状態になっている今の自分のような状態になっていたら、と考えると。


 それでももうしばらくは改竄しないでおこうとおもいます。

 何の脈絡も無く帰ってきてしまった。今日はJリーグの試合をTVで2試合見た。明日は映画とまたサッカーの試合を見る予定。運動不足になりそうだから、走って近所を一周してこようか。それとも英語の勉強でもしようか。迷っているようで迷っていない。両親と話してみて、この人たちにしてあげられることは何にも無いんだなと改めて思った。そこのところは開き直るしかない。誓いは自分の中だけで、未来の自分に約束してやら無ければならない。希望は、こころある人達に、求められれば話すようにしよう。

 ぐうたらしているのはさすがに飽きた。ので、ツンドクしている本や、高校時代の英語の教習本なんかをめくっていたりしたのだが、なんかそれももう気が進まない。

 「サマリア」のエントリは一昨日、三時間以上かけて書いたものです。そうしたことをしているときには、疑いを抱かないようにしている。というか、何かを信じて書いているわけじゃないから疑いなど持ちようにも無理な話なのだけれど、しかし文章を書いているからには、それを受け取る人達を有る程度意識はしているんだろうと思う。それを明確には意識しないようにしているといったら正解に近いかもしれない。

 広大なネットのなかで、何らかの偶然でこのページにたどり着いたあなたに、私は何を提示しうるだろうか・・・

  

 この映画は2度見逃した。1度目は東京、2度目は四国、三度目の正直とばかりに東京の名画座で見た。自分の中で気になっていて、何度か見逃した映画は是非にでも見るべき映画になってしまうのは何故だろう?原題のsamarian girlとは新約聖書に出てくる話で異教徒サマリア人の中で最初にイエスを信じた少女の事を指すようです。三章立てになっていて、それぞれ「バスミルダ」「サマリア」「ソナタ」となっていて,

それぞれの章で全く違う味わいがあったのが不思議でした。ので僕も筋書きを三章立てで書いてみたいと思います。(ネタバレしまくりんぐなので気をつけてね!!)


 バスミルダ

 インドの伝説の娼婦の名前だそうです。彼女に抱かれた男達は皆信心深い仏教徒になるの、天真爛漫に語るチェヨンは胡散げに見つめるヨジンに言う、「私のことをバスミルダと呼んで」ヨーロッパ旅行に行くための資金をためる二人の女子高生は、男性とチャットで知り合っては援助交際を持ちかけている。実際に身体を売るのはチェヨンで、場所や値段の交渉と見張り、金銭管理はヨジンの役目だ。身体を重ねた男達一人一人との出会いを大切にしようとするチェヨンに、ヨジンは言う。「お願い、職業は聞かないで」

 後十回、同じ事をしないといけないわ、ヨジンはため息をしつつ言う、「身体を売るのはチェヨンだけなのに・・・」チェヨンは満面の笑みを浮かべ言う、「私貴方がいないと何も出来ないの」

 こんな綺麗な身体を誰にでも触らせるなんて・・・、風呂場で身体を洗ってやりながらヨジンははがゆくてたまらない。「誰にでもじゃないわ」いつものとおり屈託なく答えるチェヨンに一層はがゆさをつのらせるヨジン。そんな中チェヨンは客の一人に恋をする。「音楽家なんだって」「職業は聞かないはずでしょ」「一緒に食事をしないか」「帰ってください」「とてもいい人なのよ、歌を聞かせてくれたの」「俺のことを不潔だと思っているな・・・」

車の中と外とで2人の体温が微妙にすれ違ってゆく・・・。

 もう逃げ場が無い。ヨジンがナンパ男を追い払っている間にホテルに警察の手入れが入って、チェヨンは追い詰められ開け放たれた窓に足をかける、私を捕まえられるものなら捕まえてご覧とでもいうような笑顔のまま。お願いだからやめて、ヨジンは懇願するように叫ぶ。チェヨンには届かない、そして、落ちる。あの人に会いたい、ヨジンは臨終のチェヨンの願いを適えるため音楽家のオフィスを訪れる。忙しいと面倒がる彼にすがるヨジンの肩を抱いて音楽家は言う、早く終わればそれだけ早く行けるぞ。ようやく音楽家を連れて病院にたどり着いたチェヨン、緊急治療室から運ばれてゆく遺体の顔を見て絶叫する。


 サマリア

 罪滅ぼしがしたい、いったん焼き捨てようとしたお金を握ってヨジンは驚くべき行動に出る。今までチェヨンを抱いた男達と会い、ことをすませてからお金を返してゆくのだ。男達のアドレスは彼女の手帳にある。ヨジンを抱いた男たちは、ある者は心の平安を得て、ある者は自らのあり方に向き合うことになる。幾人かめの男とホテルの一室で会っているところを、殺人事件の調査をしていたヨジンの父親(ヨンギ)が見てしまう。ヨンギは理解できない。

 今日の海外トピックは?無邪気にそう聞くヨジンにヨンギは話せることが無い。父一人子一人の家庭で、なくなった母親の分まで手塩にかけて育ててきた。出勤前、車で学校に娘を届ける時間は、いつもならもっと楽しい時間のはずだった。親密なものへの猜疑心は口に出すことの出来ないやるせない怒りを生み、それは娘を抱いた男たちに向かう。

 あなたは、何歳の女性と会っていましたか?学校から出た娘の後をつけてであった男のうつむき黙り込むさまが火に油を注ぐ、妻子持ちの男の家庭へ乗り込んで食卓を挟んで男のはす向かいに座る彼の娘の学年を聞く、「貴様、自分の娘よりも若い女と!!」男はヨンギが去った後、窓から飛び降りる。公園の端に止めた娘を乗せたワゴンカーからまた別の男が出てくる、トイレに入ったところをねらってヨンギが石で滅多打ちにする。頭から血を流して死んでいる男を、ヨジンも見てしまう。悲鳴を上げて逃げてゆく娘が落とした手帳をヨンギが拾う。


 ソナタ

 ヨジンが家に帰ると、ヨンギが巻き寿司を作っている。なにを突然、といぶかる娘に父親は言う、明日は母さんの命日だ、墓参りにいこう。今にも崩れそうな山道をヨンギの車は分け入ってゆく。山頂にたどり着いてお墓の周りに寿司をまき、酒を注ぐ。父と娘、同じものを食べる。帰り道ハンドルをきりそこねた車は前輪が小石の山につかまってしまう。ヨンギが一息つこうと煙草を吸うとヨジンが外に出て石をどけようとする。 ふと見上げると向いの山々が自分達を見て笑っている気がした。そんな小さな石くれに難儀しているのか、と。

 ソウルまで帰るにはもう遅い、親切な老人の家に泊まる。ヨジンは眠っているうちに、ヨンギに他愛なく首をひねられて殺されてしまう。いつもの朝そうしているようにヘッドフォンを耳にかけられて、川原に埋められる。父親は石の間から伸びるコードの先のCDプレーヤーの再生ボタンを押す。いつもとは違って心地よい目覚めのためでなく、覚めることの無い眠りにつく娘のためにサティのジムノペティが流れる。はっとしてヨジンが夢から目を醒ます。

 翌日、車の運転を教えてやろうと、ヨンギが色を塗った石を川原に並べ、教習所のコースまがいのものを作る。これがブレーキ、これがアクセル、ギアを入れ替えて・・・、だんだん上手くなってきた、隣に座った娘をいつまでも見守ることが出来ればと思っていた。「これからは一人でやっていくんだぞ。」そういい残して助手席から外に出る。迎えの車が来たようだ。気づいたヨジンは必死で追いかけるが、習ったばかりの運転では追いつかない。


 感想

 いい映画でした。思い出しながら筋書きを書いてると涙が出ました。サマリアのサイトを開くと流れる糞甘い音楽を流しながらだったからかもしれません。劇場では泣かなかったのにな。追体験としての映画は、ストーリーを書き起こしてみるのが最適かもしれません。実は登場人物の名前を大体忘れていました・・・。

 最初の方でMSNメッセでやりとりしているのが印象に残りました。客にデジカメの写真をぱっと見せたりとか、リアルです。援助交際は韓国でも社会問題になっているのかもしれません。しかしそれはテーマに過ぎず。語られているのは別のことです。そういうわけで、ラブ&ポップの400倍好きになりました。最初見たときは流血シーンが多すぎ、自殺シーンがこれ見よがし過ぎ、何か「粗さ」を感じてしまって、期待が大きかっただけに、大分しらけてしまいましたが、三章立ての意味はおそらく、第二章の流血シーンが韓国内での興行受けのために切り離されていることを伝えようとしたのではないかと思います。最初見たときは第三章が一番納得いった。だけど、こうして思い出してみると第一章の「バスミルタ」の完成度は比類ないものがあります。特にチェヨン役のハン・ヨルムの天真爛漫な演技は怖いくらいです。とてもクランクインしてから11日間で撮ったものとは思えません。

 おそらく今年僕が見た映画の中でベストテンに入る映画になるでしょう。是非見てください。
 

 新居について、一番初めに聴いた音楽はスライの歌う「ケ・セラ・セラ」だった。蛍光灯の光は部屋を狭く感じさせるから夜間照明の微かなオレンジの明かりだけ点けて、窓から見える公園の電灯をみながら、甲高くしゃがれたスライの歌声を聴いたのだった。


 それももう4ヶ月以上も前のことになる。この間、自分に何が出来たか、何が出来なかったかを考えてみる。同じ部屋で、別の季節の訪れを感じながら・・・ 

 

なにか今の自分の手には負えないことを始めてしまった気がするので・・・ 少し休ませてもらってました。

ようするに、ネット世界と大分距離を置いていたら、ねとらじもその他のことも、ちょっとついていけない感じになってしまったわけです。興味はある・・・時間と場所が無い、というのが今の状況です。


 レスポンスを期待できない所で淡々と思いを綴るのも、ちょっと飽きたかな?という感じです。自分のホームページを持てば別だろうけど、ここは借家にすぎないわけですから・・・。


 ねとらじで知り合った方たちで会って話をしてみたい人は沢山います。自分の中でそう言う気持ちがあるのは不思議ですが、大切にしていきたいと思っています。会った事も話したことも無い人のことをいっぱい知ったつもりでいるのは虚しいことだと他人は言うかもしれないけれど、僕にはそうした考えこそが虚しいものだと思えます。これもありだよね、と、いうことではなく、僕には「ねとらじ」しか無かった、という時期が半年近くあったわけです。そうしてその半年を今、僕は肯定できるし、これから先も肯定できるものとして考えてゆくつもりです。

 達也が決めてくれてハッピーです。後半半ばまで、Jで結果を出してる精鋭達が、チームとしての、練成度も高められないまま、ぶっつけ本番に放り込まれて、何考えてんだかわかんない監督につかいすてにさてしまうのかとおもってたけど、少なくとも彼らは引き分けた。勝ち点も取った。ただ、今野や村井、阿部や駒といった将来性のある若手があの一試合だけで評価されてしまうとしたら残念です。ヴェルディがレアルに勝った試合を見て、腹を立てていたような、サッカーにしろその他の事にしろ、他人の受け売りだけをあてにる、見る目の無いバカどもは、ぶっちゃけどうでもいいんですけれどね。結局、自分にとって、代表よりも浦和のほうが大事なんだという気持ちが強くなっただけの試合でした。

 ひとの運転で通った路をあいまいな記憶を辿りつつ歩いていた。「これでよかったっけ?」と訝りながら、勾配のきつい車道の脇でサンダルをぺたぺた言わせていると、急に前方に海が広がった。丘の上の宿舎の二階の自分の部屋から見ていたものと同じ、ここでも瀬戸内海は、あけっぴろげに肢体を広げ、水平線との境界線が曖昧になった島々がふちどる丸い隆起を、惜しみなく晒していた。つまりはその瞬間に、何故四国へ来たのだろうかとか、金を払っているのに一日8時間以上汗を掻いているのは何故だろうとかどうでも良くなってしまったりしてる。


 真昼の太陽は真上から、容赦無く弱い神経に軽蔑を投げかけ、田んぼの用水路のふちに数え切れないくらいこびりついているショッキングピンクのジャンボタニシの卵に僕は吐き気を催した。シマヘビがご機嫌伺いに田んぼの中から挨拶してくる。「いいよなおまえは涼しそうで」しかし歩こうと決めたのは僕だ。真昼間から人家の立ち並ぶ中を歩けば、休日といえどやはり訝しげな目で見る人達もいる。穿鑿というほどでもない胡散気な眼差しの林立する住宅街を抜け、僕は一路海を目指す。宿舎に在る読み込み部分に支障をきたしたCDプレーヤーが、同じ短いフレーズを何度も繰り返すように、最近めっきりまともに動くことのない、我が脳内プレーヤーもまた音飛びして「海へ」を繰り返し始めたのだ。出かけるときには海に行くつもりなんか無かったのにな・・・。そこにあったのははるかな昔、人がまだ魚だったっ頃の記憶だろうか?、母なる海への郷愁は、やはり根深いものなのかもしれない。


 山を抜け、家々を抜け、幹線道路を抜け、川沿いに水の流れを辿り、そして海はそこにあった。眼差しがそこに存在することの意味を忘れさせるように。寄せてはかえす波うちぎわで鴎が踊り、歌を歌う。空よ、今日の天気をありがとう、僕も充分に羽を伸ばさせてもらってます。海よ、在ってくれてありがとう。僕達はあなたから生まれた。あなたがあげる飛沫の一つ、それがこの私、空を舞い、やがては落ちて、またあなたと一つに還る。泡沫の夢、未だもう少し見ることが許されているならば、力尽きるまで羽ばたこう、あなたを称えるための、あなたに捧げる血と肉とが、少しでも価値在るものであるように。


 夕暮れ傾いてきた日差しに町並みが和らいで見える、幾分かやさしい気分になって、僕は帰り道を急ぐ。途中スーパーで一休みする。クリームソーダ、今日の贅沢・・・なにかしら浮世場慣れしたものを口にしたかった。鳴り響く店内放送なり有線放送の只中では、賢治の童話など、とても読めないと悟って、買い物を済ませ足早に店を去ろうとした。おみやげに焼きたてメロンパン、焼けるのを待っているうちに買い物に来た仲間達と出会い、捕獲され、連行され、ねぐらに戻った。

 連続更新無理でした。書く気力というか、ネタというか、どうも芯のないエントリーを続けてきてしまってるようです。リビングにあるPCを独占するタイミングも難しいし・・・、世情には疎くなっている。JリーグだけはサポティスタやJ´sGOALの記事で追いつづけてますけどね。ほかのことはどうも・・・気が乗らなくなってきている。毎晩、新聞を読むことを自分に義務付けようかな・・・。夕方よくやっている民放のニュース番組のいかにも、な語り口が我慢できないし、自分から積極性を持って情報を取り入れるということを時間のあるときに習慣付けておくと、忙しくなってからも融通が利くようになると思う。実は今日は仕事はお休みです。ふもとの町まで小一時間、前回はなんとはなしに疲れてしまって行けなかったので、今日こそは・・・と思ってるけれど、どうだろう、このまま自分の足では一度も確かめることなしに、ここを立ち去ってしまうのかな・・・?。

  昨日除去した蜂の巣の近くで、地に伏し、もがきつづけている蜂の残党がいた。そこは木陰になっていて、飲み物をつんだ軽トラを停めたりしている、作業の合間の休憩をとる所だった。蜂の巣から掻き出した蜂の個が孵化したものか、偵察に出ていた蜂だったのか、良くわからないけれど、息も絶え絶えになりつつあるのに、まだたちあがろうとしている蜂の執念に僕は恐怖を覚えた。「苦しいだろうから、いっそのこと一思いに」と女性の手前言ったけれど、彼女には、しつこく動かなくなるまで鍬の先を死に掛けの蜂に押し付ける僕の様子はいかにあさましくみえただろうか。

 今日は初めて蝮に出会いました。毒が危険なので死んでもらいました。おなかが大きくなっているので子持ちだろうと、僕がお世話になっている農場の人は言いました。腸をはみ出させていながらもなお蠕動を続けることをしばらくやめず、しばらくして、完全に動かなくなったときには蟻がたかっていました。とっても惨たらしかったです。心臓を動いているうちに一気のみにすると、精がつくらしく、あとからそれを聞いた僕は、ちょっともったいなかったな、と思いました。

 直径10センチくらいのアシナガバチの巣も見ました。外界にたいする警戒を怠ることなく巣を守るように取り囲んでいる様はよく訓練された傭兵部隊のようで、ハンターハンターという・・・かつて好きだった漫画を思い出しました。危険なので、こいつらにもやはり死んでもらいました。除虫剤を吹きかけると、たまらず巣から四方八方へ飛びだし、周囲をのた打ちまわりながら死んでいきました。また、巣から逃れようもない蜂の子の運命はアウシュビッツにあったガス室を連想させるものでした。しばらくして、除去された巣があった場所を、飛び回る蜂がいて、そのことを農場の人に聞いたら、おそらくは遠くに出かけていた蜂だろうということです。帰るところのなくなった蜂がもう存在しない我が家を探して、いつまでも元在った場所をうろつくなんて、ロマンチックな話ですね。僕もおもわず、あくびまじりにもらい泣きしてしまいました。

 こうした幾多の犠牲を払って私達の食べるものは用意されるのですから、是非ともジャンプ編集局には、最近の富樫をなんとかしてほしいとおもいます。