空気なんて読めない

空気なんて読めない

ozonの試験的公開日記

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 日本の皆さん! こんにちは!


 ozonは自分にとって世知辛くなる一方の日本を抜けて、全人口が通勤ラッシュ時の東京の人口数と同じくらいのどこぞの片田舎国に来ています! 親の金で! 


 かつて働いていた日本食レストランは今では更地になってしまいましたが、店長だった方に怒られるのを恐れて遅刻をしないようにと小走りで走ったり、やっぱり怒られて、「いらないよ」と言われて涙ながらに帰ったりした道は、変わりはありませんでした。


 あの時、風にそよぐ街路樹に見守られ、歩きながら感じていたこと…。不思議な勇気で胸をいっぱいになっていったこと。その場所だけでなくここではそうしたことが何度もありました。それが何だったのか確かめるためにここに再来したのでした。


 日本人留学生が減っていたり、かつて住んでいたところの地価が2倍近くになっていたりと、こちらも変化が(もしかしたら日本以上に)激しいけれど、頑張ってものにできるだけのものをものにようと思います。


 UAの「強く儚き者たち」の歌詞にあるように、僕はここで何かを得る分、何かを失い、そしてやはり後悔するのかもしれません。「これ以外の道はなかったのか?」と。


 ま、今はそんなことを思い煩う時間もなく忙しくすごしています。と見得を切ったところで、日本の皆さん!!


さようなら! さようなら! さようなら!




           Good by, My dear. See You Again !

 今日は七夕ですね。

一年に一度だけしか会えない男女関係というものはどういうものなんでしょう?

やっぱりそれそうとうに濃厚な・・・ えすいーえええっくす逢瀬を楽しまれておられるわけなんでしょうね・・・。







いいなぁ





 


 と、いうわけで、自身存在自体を忘れかけていたブログを久しぶりにかこうかというときに、織姫と彦星に下衆な勘繰りを入れたりしている幽霊ブロガーのozonです。皆さんお久しぶりです。


 







 このブログも・・・・・

一年一記事にしようかな・・・。





 






 


なんてねw












        ・・・だれかつっこんで、お願い。

 何故だろう、僕にとって映画の評価は、書き始めてみないと分からないものらしい。「善き人のためのソナタ」は期待してたよりは面白くなかったとは思っていたけれど、前回のエントリほどにけなすことになるとは思ってもいなかった。

 

 口直しに「それでもぼくはやってない」のことを書こう。なにしろ、これは僕にとって期待していたよりずっと良かった映画だったのだから。


 とりあえず満員電車内での痴漢行為に対する僕の意見としては、満員電車自体がセクハラだ、ということ。女性専用車両だって? 同性愛者はどうする? 少数派は切捨てだって? そういう大雑把な感性がこれまで幅を利かせていたから痴漢を含むセクシャルハラスメントが横行していたんじゃないのか。肌と肌の接触に対する、人間と人間の物理的な距離というものに対する、感性をないがしろにしたところに成り立つこの国の「個人主義」を僕はどうしても信用できない。だからニートだったわけですね・・・。ふむ。


 映画は価値観の多様化が進んでいるにもかかわらず、それに即した改良がいっこうに行われない日本の社会状況を反映するかのような憂鬱なシークエンスの間に、砕け散ったガラスが放つ鋭い反射のような輝きを持つシーンを見せる。

 役所孝司演ずる人権派弁護士の事務所からみえる川、元彼女との法廷での邂逅、証人を探すために駆けずり回る主人公の友人、再現ビデオを作るシーンでの微妙な感情の綾・・・。

 

 「それでも」最後には・・・・。


 とにかく圧巻です。周防正行監督、舐めてました。ごめんなさい。



 善き人のためのソナタという映画を見た。併映された「それでもぼくはやってない」が予想外に良品&ショッキングで、折角「メインに」とっておいた「善き人のためのソナタ」の印象は薄れてしまったけれど、主人公の東ドイツの諜報員が、反体制的な作家の諜報活動を続けていく過程で、作家にシンパシーを抱いてゆくまでの、ある意味見え透いたエピソードの積み重ね(だからこそ国境を越えるわかりやすさがあって、アカデミー外国映画賞まで受賞した。)の見ているうちに、ああそうか自分は、ねとらじを聞いていた頃の自分とこの映画の主人公を重ね合わせるためだけにこの映画を見に来たのだな、とわかった。

 

 映画の出来はあまり良くなかった。ラスト間近、東西の壁が崩れた後、作家が死んだ恋人を巡って三角関係にあった官僚に「こんなクズが国を操っていたのか」と毒づくあたりで、初めのほうから気になっていた善(人)と悪(人)との対立があまりにもシンプルに描かれていくことに感じていた違和感が明瞭になって、最後の「オチ」にも-ああ、はい、そうね-という感じだった。


  深刻なまでに二律違反に引き裂かれる登場人物は、作家の恋人の女優のみ、後半で作家に盗聴が発覚するシーンにも、何のスペクタルもない。「映画」というある意味では、公認化された「のぞき」行為の中で、観客に諜報員と自らを重ね合わせるような入れ子構造を自覚させるためは、(「善き人」である)主人公の相棒の若い諜報員が持ったような「のぞき」感覚に訴えることが出来なくては駄目ではないだろうか。これでは善き人が善きことをしただけの映画だ。


 ジョージ・キューカーの映画にあるような、ある反転、主人公が思っても見なかったような目にあうことで自分の立ち居地を知る瞬間は、この映画の中にはない。自同葎的なヒューマニズムの確認があるだけだ。僕はこの映画を見ることによって、ある時期のハリウッド映画の持っていた輝きがいかに得がたいものであったかだけを知った。





 まったく、善き人のための映画なんてまっぴらごめんだ。人間のくずのための映画をもっと!もっと!

 下北沢って変な町ですよね。劇場がたくさんあるせいか、町並みも変わっていて、ブティックやら古着屋やら(実はあまり区別がつかない)ヘアーサロンはともかく、みずほ銀行の不動産信託の店舗が、レンガ立ての建物の一角に入ってたり、松屋が立て看板出してたりする(でも何か特別なメニューがあるわけではない。テラ牛丼とか・・・期待しちゃダメw)前から変だ変だと思ってたけど、よくよく観察してみたら本当に変な街だった。年中学園祭やってる感じ。 個性的って聞こえはいいが、中年や老人は居づらいところがあるんじゃないかな。

 まーともかくその変な街を、休日にもかかわらず仕事だということで駅から歩いていたら、その個性的な町並みの全ての街灯に白地に赤い丸が書かれた変な旗がぷらぷら垂れ下がってるのを発見して、何か自分の中でぐらぐらっと来て、全てがばかばかしいような感じがしてきて、思わず最寄のコンビニに駆け込んで、そのまま立ち読みを続けて・・・・結局、仕事をさぽってしまいました。


 くっそーあんな変な町があるせいだっ!(やつあたりです。わかってます。) 

 

僕が働き始めると、某監督が脳梗塞になったり、某チームが当然視されていた優勝を逃したりするんでしょうか?

 最近、窓ガラス拭きの仕事を始めました。といってもまだ見習いですが。職人気質の人達が多く、ともするとやすきに流れやすい自分にはちょうどいい職場かもしれません。外に出て、ロープにぶら下がって仕事をやるまでには、まだまだ技術が足りず、内装のガラスを拭くにも経験が足りないので、もっぱら、ビルの玄関の窓ガラスなどを拭いて練習しています。

 あとは、見張りと言って、人通りの通りに面したビルのガラスの下に、バリケードを張って、通行に注意を喚起したり、そこがビルの入り口にかかっているばありには、一言声をかけて誘導したりする、言葉どおり見張りの仕事があります。

 その見張りをしている最中なのですが、通行人がよく、立ち止まってぽけーっと先輩方の仕事を見ていることがあることに気づきました。交差点に面した角地なので人目につきやすく、信号が変わるまでの時間を待つため、多くの人が立ち止まることも珍しくはない場所なのですが、彼らはいったい何を考えて見ているのだろうと思うとおかしくなります。

 こういう仕事もあるのだな、といってみているのか、はたまたサーカスに始めていった子供が綱渡りを観るように見ているのか、阿呆のようにぽけーっと口を空けて、見上げている様を観ていると、よしんばそれが会社では偉そうにしているエグゼクティブかもしれなくても、日本ではまだまだ低い働く女性の立場の向上に邁進せんとしているキャリアウーマンでも、人間と言うのはそう変わらないものなのだなと思います。

 窓ガラス拭きの仕事はそんなせわしない現代社会における小さなエアーポケットをつくる仕事でもあるのでした。ぼくもはやく高いところへ上れるようになりたい。