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空気なんて読めない

ozonの試験的公開日記

 小中高の各年代でネットいじめが問題になっているとテレビで特集が組まれていた。見かけただけだが、身の毛がよだつ思いがした。このナイーヴさは何だろう?、いじめられるほうの、ではなく、いじめるほうのナイーヴさはいったいなんだろう?。2ちゃんねるではすぐ適者生存とか、弱肉強食とかいう言葉が出てくるけれど、はたしてそれがこれにあてはまるだろうか? いじめているメンバーにしても、いつ自分にお鉢がめぐってくるかわからない状況に、戦々恐々としながら保身のために行っているのが本当じゃないのか?


 ナチスドイツのホロコースト、アメリカのマッカーシズム、いまだとイラク戦争もそうだけど、分かりやすいのはイスラエルとパレスチナの紛争だ。マイノリティへの弾圧は、本質的には弱者による弱者の弾圧だ。


 しかし、ここに働いている集団主義に、対抗する論理というものを日本の、教育の現場の教師たちはもちえているのだろうか?日本の場合、一番の焦点はそこになるはずである。フランスやドイツの教育では徹底的に個人主義を叩き込む。日本の教育のどこに個人主義があるだろうか?


 教師自身が保身に汲々としているのに、一生徒の「変わった様子」に気づくことなんかあるはずがない。



 付け加えて言うと、「逃げること」はもっと推奨すべきことだ。いじめを行うグループは、そのターゲットよりも身動きが出来ないことはわかりきっているのだから。自己の生命を守る権利を見失わせるのが教育の目的であるとでも? 

 「思想について語るさい、すぐれているとか、劣っているとかいうようなことばを用いて平然としていられる自体こそ、私たちがどんなに腐敗した空気の中にいるかを示すものです・・・・・・。

 同様に、書かれたものにしろ、話されたものにしろ、ことばもまた、たべるものなのです。もしそれが食べられるものでありさえすれば。すなわち、そのなかにいくらかでも真理がふくまれていさえすれば。ことばには、これ以外の目的はないのです。」


                                             シモーヌ・ヴェーユの手紙から


 反省。



良く寝てます。

本読んでます。

映画にもちまちま行ってます。

時々お酒も飲みます。


先の見通しはつきません。





あでおす。

夏だからね。

寒かったら大変だ。

ああ、そうそう、文字サイズ一つ大きくします。


こまいのだとなんかごまかしが利く気がして、ごまかしといっても自分自身に対するものなんだけど。


 それにしてもデカいね。一つサイズをあげただけなのに、一年ぶりにあった甥っ子くらいにデカくなっちゃったよ。


 なんか文体まで変わってるな・・・。


でも暑い中、風呂場で本を読んだりするとなかなか面白く読めることを発見した。


アンドレ・マルローの「王道」これ10回くらい挫折してんだけど・・・。

冒険熱に浮かされた西洋人が東南アジアの密林地帯へお宝もとめて乗り込んでゆく話なんだけど、クーラー聞かせた涼しい部屋で麦茶飲みながら読むもんじゃないね 多少なりともこちらも似た環境を用意して、むせ返るような熱気と混沌から浮かび上がってくる言葉を掠め取るように読むのが、面白い。


もちろん、風呂場なんだから、裸でね。


それにしても暑いな。

 きつい日程だったんだろう。

韓国の守備は堅かったんだろう。

オシム流の「走るサッカー」は出来なかったんだろう。


それでも




シュート打てよ

 はい、残念でしたサウジアラビア戦。


 これで決勝はサウジVSイラクの世界有数の石油産出国対決になりました。

寄寓にもアメリカ合衆国と因縁の深い両国が決勝で対決することになったアジアカップ決勝を、

きっとブッシュ大統領は感慨深い思いを抱きながら観戦することでしょう。

ローラ大統領婦人も胸元のネックレスに手をやりながら、サウジのチャントに参加しちゃったりしするんでしょうか。


 やつらサッカーなんてみねーよなんてつっこみはさておき、


 もう一つの因縁の対決、3位決定戦で実現することになった日韓戦でありますが、

正直、楽しみでたまりませんね。

セルジオ越後氏の「惜しむイズムで結果は出なかった。ゼロだ。」というコメントに対しても

日韓戦のあとにコメントさせていただきたいものです。


 日本代表には未だ、たくさんあるんだ。

 できることも、やるべきことも。


 僕にも、きっと、あなたにも。

 まぁ、良かったんじゃないの~

あんなに押せ押せでPKまでいってしまったことが何か問題あるような気がすごくするが、

 延長戦後半終了の笛が鳴ったところで川口がいるからPKは大丈夫かなと思ってしまった自分がいることも確かなので。

 でも、体調万全の豪州チームが相手だったらと思うとこの勝利で日本代表の将来を楽観視することはできないわけで。

 ともかく、日本代表チームにはもうちょっとすっきりした試合展開をしてくれるチームになってくれることを望むよ。

 ま、この試合運びの拙さは成長途上のチームである証拠だともいえそうなんだけど。

 自宅近くに新しく出来たコンビニの前に、一対の男女がいた、電灯に照らされてうずくまり、身を寄せ合っている恐らく未だ十代だろうそのアベックはまるで二人で一匹の生き物のようだった。自転車を止めた私に男のほうが視線を向けた。日本人離れした顔立ちと、目の強さに気圧されて、僕はそそくさと店内に入った。


 何故か、My name is ass hole というフレーズが頭に浮かんだ。


 しばらく動揺が収まらず、手持ち無沙汰に店をうろつき、えいとばかりにミニボトルのニッカボッカとつまみのスナック菓子をとってレジへ向かう。


 そこで少年時代の大半を過ごした90年代以降、わずかに残った雑木林や田畑がなんの役に立つかわからない二車線の大道りや、マンションに変わっていったこの町に、僕はほとんどなじみがない。部分的な整形を繰り返す恋人が少しずつ他人になってゆくように、人生のもっとも長い時期を過ごした場所であるこの町は、僕にとって、帰るたびによそよそしい場所になっていった。


 そのコンビニがある通りは、人どおりも車どおりも少なく、その店は、もはや飽和状態あるこの町のコンビニ戦線にに止めを刺した形になった。いつ行っても、あまり客は入っていないようで、そのうちつぶれるのではないかと思う。その二人の男女のかもす所在無さはそのいつなくなるかわからないコンビニの灯りの下に、あまりにもふさわしかった。

 

 彼らと比べてこの自分は、この町になんと他愛なく妥協し、曖昧になれあってしまっているだろうか。


 自分の部屋に戻り、水割りをあおりながら、そういや、先刻視線を交えた二人は、この町に戻ってきてはじめて一目見て親近感を抱けた対象だったなとぼんやり思った。

 UAE戦すかっとしましたねーw。高原はすごいな、ホント。さすが2002W杯、アテネ五輪と、苦渋をなめてきただけあるよね。・・・いや、まー、だから、きちんとした指導者の下で、過度のプレッシャー無くプレーできればあれくらいできるんだって。


 オシムの怒号はプレッシャーだったはずだったって? OZONが思うには、むしろ代表選手の場合には、「日本国民の期待」ってやつが一番の重荷なんじゃないかなぁ。そうあるべきだし。いい監督ってのは、マスメディアに対しては傘になってやりながらも、選手のプレー対してはフェアに厳しいものなんじゃないかと思う。それがチーム一丸の姿勢をつくり、その姿勢が個々人に偏ることのない緊張感を生んでゆく。


 大方の予想に反してUAE戦の、ナイーヴにも硬くなってもいなかった日本代表はそのいい例だったように思う。


ん。最後にかえされた一点。微妙な残尿感。

 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画を見るのは、これで3度目になる。

ヴェンダース、ヘルツウォークと同じニュージャーマンシネマの担い手として頭角を現してきた彼は、時代の寵児としてもてはやされた3人の中で、最も人気を集めてたのだが、最もあっけなく死んでしまった。まるで生き急ぐ彼の映画の中の主人公たちのように。


 都内の名画座系の映画館では彼の映画を一年に2,3度はやっていて、もっと数見ていてもいいんだけれど、僕の、「観るべき映画」に対しての億劫な姿勢が、観ずじまいにしている。そうして見てしまうと、「もう、いいや」という感想が出てきたりするのだ。例えば、この「四季を売る男」のように。


 その、「もう、いいや」は例えば「スパイダーマン3」みたいな映画に対しての、「もう、観なくていいや」であると同時に、例えばこうやって都市型生活を送ることへの疑問に対しての「もう、考えなくていいや」でもあって、もしかしたら、そう例えばこのブログを観られている地方住まいの読者への説明責任を欠くことにつながってしまうのかもしれない「もう、いいや」なのだ。


 どうしてだろう? 映画がすきなんてよく言えたもんだ、自分。そうだ、こういう「良い本を我慢しながらでも読み終えたときの読後感」に似たような後味の残る映画以外、「映画じゃない」とか思ったりするくせに。だけどそうだ、自分の中に残るわずかな誠実さを示そうとするならば、こんな捨て台詞が浮かんでくる。


 こういう映画に会えなければ、映画なんか観やしない、見続けようとも思いはしなかった。「貴方にぜひ観てほしい」だって?、知ったことか、こんな映画があり、こんな自分があること、決して幸福だなんて思えやしない。