ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画を見るのは、これで3度目になる。
ヴェンダース、ヘルツウォークと同じニュージャーマンシネマの担い手として頭角を現してきた彼は、時代の寵児としてもてはやされた3人の中で、最も人気を集めてたのだが、最もあっけなく死んでしまった。まるで生き急ぐ彼の映画の中の主人公たちのように。
都内の名画座系の映画館では彼の映画を一年に2,3度はやっていて、もっと数見ていてもいいんだけれど、僕の、「観るべき映画」に対しての億劫な姿勢が、観ずじまいにしている。そうして見てしまうと、「もう、いいや」という感想が出てきたりするのだ。例えば、この「四季を売る男」のように。
その、「もう、いいや」は例えば「スパイダーマン3」みたいな映画に対しての、「もう、観なくていいや」であると同時に、例えばこうやって都市型生活を送ることへの疑問に対しての「もう、考えなくていいや」でもあって、もしかしたら、そう例えばこのブログを観られている地方住まいの読者への説明責任を欠くことにつながってしまうのかもしれない「もう、いいや」なのだ。
どうしてだろう? 映画がすきなんてよく言えたもんだ、自分。そうだ、こういう「良い本を我慢しながらでも読み終えたときの読後感」に似たような後味の残る映画以外、「映画じゃない」とか思ったりするくせに。だけどそうだ、自分の中に残るわずかな誠実さを示そうとするならば、こんな捨て台詞が浮かんでくる。
こういう映画に会えなければ、映画なんか観やしない、見続けようとも思いはしなかった。「貴方にぜひ観てほしい」だって?、知ったことか、こんな映画があり、こんな自分があること、決して幸福だなんて思えやしない。