善き人のためのソナタという映画を見た。併映された「それでもぼくはやってない」が予想外に良品&ショッキングで、折角「メインに」とっておいた「善き人のためのソナタ」の印象は薄れてしまったけれど、主人公の東ドイツの諜報員が、反体制的な作家の諜報活動を続けていく過程で、作家にシンパシーを抱いてゆくまでの、ある意味見え透いたエピソードの積み重ね(だからこそ国境を越えるわかりやすさがあって、アカデミー外国映画賞まで受賞した。)の見ているうちに、ああそうか自分は、ねとらじを聞いていた頃の自分とこの映画の主人公を重ね合わせるためだけにこの映画を見に来たのだな、とわかった。
映画の出来はあまり良くなかった。ラスト間近、東西の壁が崩れた後、作家が死んだ恋人を巡って三角関係にあった官僚に「こんなクズが国を操っていたのか」と毒づくあたりで、初めのほうから気になっていた善(人)と悪(人)との対立があまりにもシンプルに描かれていくことに感じていた違和感が明瞭になって、最後の「オチ」にも-ああ、はい、そうね-という感じだった。
深刻なまでに二律違反に引き裂かれる登場人物は、作家の恋人の女優のみ、後半で作家に盗聴が発覚するシーンにも、何のスペクタルもない。「映画」というある意味では、公認化された「のぞき」行為の中で、観客に諜報員と自らを重ね合わせるような入れ子構造を自覚させるためは、(「善き人」である)主人公の相棒の若い諜報員が持ったような「のぞき」感覚に訴えることが出来なくては駄目ではないだろうか。これでは善き人が善きことをしただけの映画だ。
ジョージ・キューカーの映画にあるような、ある反転、主人公が思っても見なかったような目にあうことで自分の立ち居地を知る瞬間は、この映画の中にはない。自同葎的なヒューマニズムの確認があるだけだ。僕はこの映画を見ることによって、ある時期のハリウッド映画の持っていた輝きがいかに得がたいものであったかだけを知った。
まったく、善き人のための映画なんてまっぴらごめんだ。人間のくずのための映画をもっと!もっと!