あけましておめでとうございます。どうやらこのブログも無事に新年を迎えることができました。果たしてそれが良いことかどうかとか、考える前に、読者がほぼ見えない状態で続いているということが、僕にとって奇跡に近いことなので、とりあえずついでに祝っておきたいと思います。
何か面白いことを全く思いつけないので、初詣から帰ってきたらこのブログをつぶそうかと思うんですが、あいにく僕には振袖姿が良く似合う、感じのいい彼女がいません。というわけで、気がついたらまた書きす。では またいつか。
あけましておめでとうございます。どうやらこのブログも無事に新年を迎えることができました。果たしてそれが良いことかどうかとか、考える前に、読者がほぼ見えない状態で続いているということが、僕にとって奇跡に近いことなので、とりあえずついでに祝っておきたいと思います。
何か面白いことを全く思いつけないので、初詣から帰ってきたらこのブログをつぶそうかと思うんですが、あいにく僕には振袖姿が良く似合う、感じのいい彼女がいません。というわけで、気がついたらまた書きす。では またいつか。
新年おめでとうございます。どうやらこのブログも無事に新年を迎えることができました。果たしてそれが良いことかどうかとか、考える前に、読者がほぼ見えない状態で続いているということが、僕にとって奇跡に近いことなので、とりあえずついでに祝っておきたいと思います。
去年の今ごろ、自分はずっとねとらじを聞いていたと思います。今考えてもそれが優雅な生活とよべるものだったのか、自暴自棄になった人間のキチガイ沙汰だったのか、よくわからないのですが。ただ一ついえることは、ねとらじを聞いているうちに、そういうことはどうでもよくなっていったということです。「聞くこと」をあんなに意識して行うことはそれまでの人生ではなかったし、聞くことがどういう行為かということを考える機会もなかった。ヒキコモリの愚痴も精神病者の告白も僕にはただひたすら面白かった。あまりリスナーの着くことのないそういったラジオも自分にとって、荒涼とした砂漠で見つかった汲めども尽きせぬ泉のようなものだった。ただ面白がっていたのではなく、「渇ききった喉を潤す」というような比喩表現が陳腐に思えるほど、実感として身にしみた。「人が世知辛いこの世の中で見出すことのできる安らぎは、それでも結局のところ人とのかかわりの中にあるのだ」なんてね…w。
僕は「それ」を肯定するわけではない。僕の言いたいことが、生きていくには人との関わりが大事ですよ、なんて一般的に言われるのとは違うことが言いたいのだと分かっていただけるだろうか? 例えばこのブログ、ネットを介してモニターに向き合うあなたが、どんな人なのかはわからない。僕は全くの手探りで暗闇をまさぐるようにして書いている。それはちょっと周りから見ていただけない、見苦しい行為なのかもしれない。だけど、あなたの事を知らないということから始める行為が、僕に想像力を働かせる余地を与えてくれもする。自分の事を知らせたいというよりは、そうして働かされる想像力の触手が、あなたに幾ばくかでも触れる可能性にかけているのだと思う。
やっぱり気持ち悪いねw。開き直った方がいいのかな?。私は気持ち悪い人間です。 誰もが私に触れることを嫌がって、関係を築いていただいてもらえません。結果ヒキコモリになりました。なーんてね。
寛容であることがどんなに価値のあることか皆忘れようとしている。場面に合わせて打算から許容的になるのではなく、本当の意味で肯定的になることの意味を誰もが忘れたがってる。だけどそうなれば忘れ去られるのは僕達の方なんだと思う。いつでもそこから自分自身の生を確かめることの出来る場所に、もはやどんな墓を残すことも無く・・・。忘れかけられた僕が言うんだから間違い無い。
そう、ねとらじで、僕は「聞く」ことだけでなく、「書く」こともした。匿名で自分を取り戻そうとしたのはおろかな行為だったと言える。 自分で放送さえしたのだ。 だけどそれらはすべて、僕にとって「聞く」ことの延長線上にあったのだった。愚か者でよかったと思う。
昨日は誰かの誕生日だったらしいけど、僕は良く知らない人の誕生日を祝う奇癖はないので、何事もなく安穏と過ごしました。さて、一月以上ブランクを空けたこのブログをご覧になっている奇特なあなた、本当にありがとうございます。そしてごめんなさい。
僕のほうはボチボチやってます。今日はあまりにも何もやる気がなくて、雑誌のクロスワードパズルを解いたりしていました。やってみるとこれがなかなか難しい。知っているはずの言葉がなかなか出てこない。結局ネットに頼ったりしましたが、大分頭の体操になったと思います。僕のように最近物忘れが激しいという方はお試しあれ。
今日はカリスマリスナーのねとらじの楽しみ方というものを伝授してさしあげようw。
というのは嘘で、僕自身の体験から、どんな瞬間がねとらじを聞いていてよかったと思うのか、を好き勝手に書きたいと思います。やっぱり、気持が通じた、というのは嬉しいですね。DJというかパーソナリティというか、PCにマイクをつなげただけの素人の皆さんは、とくに新人の方は、ちょっとした励ましで元気になってくれたりするものです。ねとらじDJへの励ましの言葉はやっぱり「sine」というのが一番です。これはお前のラジオは最高に面白いよ!!という意味の古代エスパニア語で・・・・
・・・ええと、だから、自分が書いたレスに対して、ちょっと躊躇するような感じ、なんとなく微妙に疑っているようなぎこちなさ、そういうのを感じるとなぜか僕は嬉しくなります。PCの向うから伝わってくる、なんともいえない空気、間の悪さ、ああ、考えてるんだなって感じ、たまらなく好きなんですw。
そういう瞬間があると、空気読んでるとか、読んでないとかどうでも良くなるくらい舞い上がってしまう。変態だよなー、自分。でも考えても見てごらんよ、ファーストフード店で、ファミレスで、飲み屋で、だべり合ってる連中(自分を度外視)をみていると、いつでも互いの目から目をそらし、誰かもっと自分にふさわしい相手はいないのかと、目が泳いでる奴ばかり、初めから相手の違う愚痴をこぼし合い、そのくせ何も聞いてない。
自分の言葉にこれだけ意識を集中してくれる相手はそうはいないよ。
・・・うん、ボク変態だね・・・。・・・まぁ、いいや・・・。
今目の前を通り過ぎてゆく人は眉根をひそめて可燃ゴミの処理に難儀している。左後方に座っている人はとにかく目つきが悪い、眼鏡を買え。右後方に座っているひとはニューヨークヤンキースのジャンパーを着ているが、・・・特に言うことは無い。キーボードの上を時たま赤蟻が横切っていくこともあるここは一体どこだろう? 目の前にPCがある、こいつが問題だ。こいつのおかげで自分がどこにいるか分らなくなる。ここがどこだっていいじゃないか、という気分にもなる。掃き溜めかもしれないし、天国かもしれないし、牢獄かもしれない、いうまでもなくもっと悪いことには、これを読んでいる君のすぐ隣かもしれないということだ。
カマキリは年々巨大化して居るという、農薬の影響で、大きくなっているだけではなく凶暴化し、また生命力も非常に強くなってきているのだという。 ソフトクリーム大の卵があちらこちらの畑で見つかるようになった。これはもう手がつけられない。それでも見つけたら何もせずに済ますというわけには行かない。後ろから、腰のあたりでつかめば危険は無いはずだけれど、子供の頃に会った感覚はすっかり鈍っていて、恐る恐る近づけた手に敏感に反応したカマキリは、すばやく反転し両手の鎌を高く振りかざした。複眼がギラリと光って僕を睨みつける。
そんな夢を見た、最後のほうは脚色だけど、とにかく気持の悪い夢だった。目覚めて、こりゃ大分衰弱しているな、と思った。
行かなかった。行けば良かった。えひめのいよかんいいよかん。行けば良かったが、行かなくても良かった。いいいいいよかん。行かなくても良かったので行かなかった。行かなくても良かったので行かなかったが今となっては・・・・いいいいいいいいいいよかん。昨日、吐いた。チキンラーメンが布団にかかった。朝口にしたきゅうりの漬物も良く噛まなかったからかそのままの形で出た。有機栽培納豆も消化されてなかったらしくまめの形がはっきり残ったままだった。吐いたが世の中はまったく変わりは無いようだった。幹線道路からの騒音はやむことがなく、すりきれていくタイヤよりも早く僕は消化されようとしていた。胃液はかさを増して、2階にあるはずの僕の部屋にまで浸水してきたのだった。思わず灰皿をこぼした。ぼくを消化しようとしているものの胃壁はニコチンに痺れて痙攣した。いったん活動がやみ僕のくるぶし辺りまで来ていた消化液も引いていった。足の指はまだ13本ほど残っていた。もちろん両前足後足含めての数だ。不吉な数字だがしょうがない。十三本の指でできるブラインドタッチを考えた。今それを実践している。
ぼくは何かを書くのだという。ペンではなくキーボードで。もうすでに書いたことが幾らか溜まっているのだという。そしてこれからも書きつづけなければならないのだという。それは嘘だと思う。義務感とはなんだろう。たまたま居合せたPCの前、なにも考えずにキーボードを打っただけ。これはひどい嘘だと思う。人がPCの前にたまたま居合わせる事などない。偶然など何一つありはしないのだという。ここ3、4日、自分がノイローゼ気味になっていたのも探せばはっきりとした原因があるのだという。しかし、原因がわかる事などなんの意味があるだろうか。それを排除できない限り。排除・・・、排除したくない。かといって今の状態が良いとも思わない。義務感とはなんだろう。
ほんとうのところ、ぼくは飽き飽きしているのだ。自分自身へのこけおどしと欺瞞に満ちたこのブログには。
それでもぼくは続けてゆきたいのだという。なぜなら死にかけた兵士の最後の一言にさえ、真実は無く・・・
義務などない、でも義務感とはなんだろう?
この胸のわだかまりはなんだろう?
前半の疾走感と後半の停滞感のギャップがなんともたまらない、始めてみた時よりもジーン・セバーグがちょっと老けて見えて、その分だけいまの自分には魅力的に思えた。2本立てで、もう一本の「男性・女性」のほうは、もう自分はこれを見て映画を見続けることを決心したというくらいの、DVDまで持っている作品だったのだけれど、寝てしまった。何か許せなくて、売店で200円するホットコーヒーとポップコーンを買い、ジャン・リュック・ゴダール初監督長編「勝手にしやがれ」に挑んだ。大分昔にビデオで見ただけの作品なのに、よく覚えている自分が不思議だった。
ボギー・・・、それは郷愁などではないはずだった。むしろそれを振り切るための仕草や流儀、しみったれた顔のハンフリーボガードのポートレートに覚える感傷のむくさきは。男らしくありたい、ミシェルは自分自身のヤワさが我慢できない。景気良く高級車を盗んだはいいが、警察のバイクに追いかけられれば、横道に入ってやり過ごそうとする、例えばそんなヤワさ。
唐突に銃は発射される。ダッシュボードに入っていたのが偶然なら、警官の死も偶然だ。それがたまたま、たちのわるいゴロツキの手によるものだっただけ。畦道をスタコラ走る様は滑稽というほかは無い。体面を取り持つ必要が有る、何よりも自分に対してだ。女の財布から紙幣を抜き取るのにも、もったいぶる。自分の生活に収まる形で、彼を愛そうとする女に、愛想をつかしたことを、教えるために。
出会いが描かれることは無い、もう肉体関係を持った女だ。「ニューヨークヘラルドトリビューン!!」通りで新聞を売るジーンセバーグ、離れてから気づいた自分の恋心。過去を参照して生きようとするミシェルは、もはやダンディズムから程遠い。
恋と呼ばれるものがなんなのか、知らずのまま、自分のロマンチズムにからめとられつつある男、これまでは、ここからそこへ、そこからあそこへ、なんの躊躇もなく飛び移る事が出来た。女の態度の曖昧さに執着する。善人であることに執着しない女の曖昧さに、自分の持たない強さを見ているのか・・・。
僕はと言えば、警察と恋人の両方に追い詰められてゆく、ミシェルの不様さに苛立ちを覚えた。最低?、いったいなんのこと?だからつまり、自分もそうやって生き残っている。ひとつの明快な美意識の決定的な崩壊の後を・・・。
他人がそれを絶望と呼ぶかどうか? 勝手にしやがれ!!
近所のレンタルビデオ屋で「サマリア」のレンタルが始まっていた。表紙は映画のパンフレットと同じ埠頭のクレーンの前で少女二人が並んで座っている写真。裏表紙には男に抱かれているチェヨン役のハン・ヨルムがうしろむきにブラジャーを剥ぎ取られる写真で、ハン・ヨルムは横向きで微笑しながらこちらに視線を投げかけている。安っぽいVシネマのパッケージ写真のようで、納得いかなかった。いつも不思議に想うのは、何でこれほどまでにDVDなりビデオのパッケージのデザインというのは規格化されてしまっているのかということだ。そうしたことでないがしろにされる要素の中に「ささやかさ」と云う物があると思う。「サマリア」はキム・ギドク監督による「少女達」への「ささやか」なラブレターです。ちょっと血のインクが生臭いし、ペーパーウェイトにつかった石塊がいびつなせいで、便箋を歪ませているけど。