空気なんて読めない -6ページ目

空気なんて読めない

ozonの試験的公開日記

 前回のエントリを読んだ、ひどく抽象的なことをかいているな、と思った。初めてこのブログを訪れた人がこれを読んで何が分かるんだろうか、とも思った。あまり分かられたくないのでこれでイイや、とも思った。

 人に聞くところによると、プロのブロガーというものは、夜かいたものを次の日の朝にチェックして、それから、エントリーするらしい。そこまでして書きたいようなことはないけれど、推敲というのはいいかもしれない。        このブログのエントリーが抽象的になってしまうのは、個人情報を晒したくないからというのが結構大きいのだけれど、読者の中に「リアル」で自分のことを知っている人間が誰もいないというのも大きく影響している。

 2、3人に教えようかと思う機会があったけれど、なんとなく止した。それは基本的にリアルでは誰にも言うことの出来ないことを書く、ということが面白いのと、僕にとって魅惑的なネット上の匿名性ということが、文章を書く上でどんな意味があるのか、自分で試しているところがある。

 それと何よりこのブログは自分自身のために書いているという意識が、非常に強いからだ。本来は、映画にしてもサッカーにしてもそれはその専門のブログを作ってやるべきなんじゃないかと思ってる。それではどうしてこのブログが今のように乱雑な風体をしていることを自分の中で是としているかというと、このブログが映画に関して書いてみたかったり、サッカーに対して書いてみたかったりするだけの人のブログだからだw。

 自身の座標軸のようなものを定めて、自分のいる位置を割り出すということ、それをしたかったし、それをするべきだと思っている。だけど正直今のこのブログの状態は物見遊山的な観覧航行というかんじだ。右へ行ったり、左へ行ったり、羅針盤は有るが、目的地が無い。何処へ行くあてもないのに、自分の位置に拘ってどうなることもない。最近はむしろ自分の位置を見失うことに執心しているような気がする。

 そこで、推敲を習慣にすれば少しはこの現状も代わるんじゃないかとも思うんだが・・・。あんまりやる気が出無いというオチです。

 何を始めようと思ったのか、それさえも忘れてしまった。ちょうどいまから一年前、ぼくはねとらじというところで、放送という名の与太話を始めた。自分はいかにねとらじというものの魅力に取り付かれたか、が僕の主なテーマだった。じっと他人の話を聞くことで見出された自分があった。語るのはその「彼」だった。

 ねとらじを聞き始めたのは一昨年の11月あたり、暗闇の中、じっと耳を済ませて、つむぎだされる言葉よりもむしろ静寂に聞き入ることも多かった。匿名の言葉を暗闇の中に何度放り込んだことだろうか・・・。その闇の中から浮かび上がってきたものがあった。「私達」という言葉だった。集団の中で落ち度のないようにと心がけて生きて来た自分が、殆ど生まれて初めて、共生ということを考えた。

 何故だろうか・・・。そこでは皆、普段は人には見せない顔を無防備に晒していたからだろうか。一言で言うならば、それは「途方にくれた顔」だった。普段どおりの生活では見せることのない顔。言葉を使って世界を切り取り、自分を語ろうとするとき、出会うものに驚いて・・・。

 僕は途方にくれていた。それもずっとだ。身の回りの誰もが、この世界でやるべきこと、自分に与えられた役割を心得ているような気がしていて、気後れしていたと言ってもいいかもしれない。そんな自分が、放送をしたのだ。「私達」から「私」を引いた「彼ら」に向かって。

 今ねとらじは聞いていない。環境的に難しいということもあるが、もう同じ「彼ら」は見つからないことを知っているからだ。放送の質をどうのこうのというのは始めからない。聞き始めた頃から、大切なのは「質」ではなく「スタンス」だと思っていたので。

 しかしねとらじに、「時代の空気」を感じた時、もう二度とねとらじを聞かなかった自分には戻れないだろうな、と思った。そして素直に告白すると、ねとらじを聞かなくなって以来、ねとらじを聞いていて過ごした幾つかの夜や、夜明けに感じた奇妙な充実感に匹敵するものを、僕はまだ持っていない・・・。

 

 編集画面を開いてみると、THINK JAPANと言うコーナーでニートについてどう思いますか? というキャンペーンをやっていて驚いた。ページを開くと某人材派遣会社の代表取締役の意見が載っている。ふむふむ、「若年無職人口」の増加についての経済的な要因に少しふれて、「彼ら」は「甘え」ているだけじゃない、と・・・。ふむ、これだけ?。下のほうに「理解できる」と「理解できない」の二択で答えるアンケートらしきものがあるのだけれど、これで一体何を理解できるのだろうか? こんな2択のどちらかにその場かぎりの答えを出させようとする人々から逃れるために、僕はニートをやっているのかもしれない。


 なんていうのはひどい嘘。

 近頃、春の訪れを鼻腔でダイレクトに受け留めているozonです。私の住んでいるところでは、はっきりとしない天気が続きましたが、昨日は久しぶりの快晴となりました。僕はとりたてて何もせずに過ごしました。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 花粉対策のマスクを買ってはなくし、買ってはなくししています。一番安いものを買うようにして入るのですが、さすがに馬鹿にならなくなってきたので、外にいるときはなるたけマスクをはずさずにいようかと思います。ええと、このブログに期待されているのはこんな文章ではなさそうなのですが、とりあえず近況報告といえばこんなところです。

 歯の治療にはしばらく行ってません。だからなんだといわれると困るのですが、最近ものすごく視界が狭くなっているようです。正直、自分の身の回りの半径2メートルくらいのことしかわかりません。それでも生きていけるのだから好しとすべきなのかな・・・。

 そうそう、フットサルの大会なんてものに出てみたりしました。ボコボコニやられて、ごく普通に現実を思い知りました。体力のなさと瞬発力の衰えということ・・・。でも面白かった。のでよかったです。

 このまま2月は何もエントリしないまま終わろうかと思っていました。むしろブログを閉鎖したほうがスッキリしていいかもしれませんね、あいにくと私は怠惰な性格で、半放置状態が半年ほどずるずると続いたまま、ついには更新も途絶え、閲覧者もいなくなると言うのが私のブログにはおあつらえ向きなんじゃないかと思わないでもありません。


 

  最近、なんかozonってハンドルネームが凄くダサい気がしてきた。いや、たぶん間違いなく大分ダサいんだろうと思う。だがこのブログを続けるのが億劫になってきたのは、ハンドルネームのせいではなく自分自身の問題だろうという気がする。そう、あれはミュージックステーションで「Dragostea Din tei」という歌を歌っているフランスのヴォーカルグループを見ているときだった。奇妙な温度差が、演奏者と観客との間にあり、その場違いな雰囲気が妙に苦しくて、その苦しさが、姿の見えない読者に向けて書いているこのブログの苦しさと似ているような気がしたのだった。

 自分で書いてて楽しくないのが一番困る・・・。

 

 なんだか最近、このブログのエントリーをする時、「書き終える」ことだけを目的に書いているような気がする。このブログに限らず、文章を書くのが物凄く下手になった気がする。読む人のことを考えてない、というかイメージできなくなっている。読者との距離感が取れていない。

 実は、「下書き」だけで保存してあるものが幾つかある。一回公開したものを隠した物もある。それを公開することが、自分の中でどんな意味を持つかわからなかったもの、もしくは、読めたもんじゃないもの。

 このブログ全体が読めたもんじゃないということはさておいて、結局自分自身のスタンスが良くわからなくなってきているのが問題なんだろうなと思う。

 


 なんだか最近、このブログのエントリーをする時、「書き終える」ことだけを目的に書いているような気がする。このブログに限らず、文章を書くのが物凄く下手になった気がする。読む人のことを考えてない、というかイメージできなくなっている。読者との距離感が取れていない。

 例えば身近な人について、自分がその人について、その人の特徴だと思っていることを並べて書いていったりすると、目からうろこが落ちる思いがするときがある。たとえ幾らか知っているだけの他人でさえ、その全体像を浮かび上がらせる時に採用する視点は普段の自分の視点と大分違うことに気付く。そうして自分自身の偏りを見つけるわけだ。

 だから、他人について考えることというのは、必ずしも「他人」だけのことについて考えるわけではない。相対している自分、というのが必ず出てくるはずだ。そう、いつでもだ。

ある分野について、ある程度知っている人になら説明の必要が無いことがある。他人のブログ等を読むのは、「その人」という分野に慣れ親しむことになる。「自分の」読者を想定して書くということはどういうことだろうか。

 ネット上で馴れ合いと呼ばれているものは、多くの場合情報をそれぞれに共有するグループが、親密感を高めるために行っている「閉じた」会話のことだろう。たとえば「なれあい」という言葉自体が、わからない人たちがいるわけだ。

  あなたが始めて出会った人に、自分のことを証明する必要が有る時に、あなたなら何から始めるだろうか。 おそらくあなたは自分のことを指し示す言葉をいうだろうが、名前と呼ばれるその言葉はあなたから一番遠い言葉でもある。なぜならその言葉を一番よく知るのは、あなたではなく他人だから。

 昨日のヒーローは確実にマリッチでしたね。堀の内の素晴らしいヘディングシュートもありましたが、ワントップとして90分申し分ない動きをみせたマリッチがMVPだろうと思います。中盤は大分抑えられていました感がありました。ポンテにしても、長谷部にしても、ぱっとした活躍が見られなかったのは残念ですが、勝ったから良し、としましょう。ワシントン要らないなー。お金もったいないよ。マリッチ出すなよーってもう遅いんだよな・・・。

 

 まぁ前回のエントリーについては無しって話で・・・。なんてね、長谷部が十二分に活躍できなかった理由は相棒の鈴木啓太がいなかったからなんだろうと思います。今は横浜Fマリノスにいる山瀬がいたときの、中盤トリオのコンビネーションは凄かった。どこかの頭の弱いサッカー評論家に「アテネ落ち組」みたいなこともいわれたけれども、2004年のセカンドステージの快進撃はあのトリオあってのものだったと思う。3人ともちょっと普通にサッカー選手って言って人がイメージするタイプと違って、コンサドーレ札幌に所属していた時分に、夜間大学に通っていた山瀬が象徴的だけど、知的というかなんというか物静かなところがあって、プレイイメージの共有がすんなり行ったんじゃないかと。エメルソンという絶対的なストライカーがいたにしても、ストライカーだけで勝てるならヴェルディ降格するはずないからなぁ・・・。


 よりにもよってワシントンってさぁ・・・。犬飼社長という人は華のある選手がすきなのだろうね。いや僕も好きな選手だけど、どうも補強の仕方がレアルマドリッド路線に近づいてきてる気がする。リーグ戦でぱっとしなかったマリッチ自身の責任もあるけど・・・。


 ともあれマリッチ、ありがとう、そして、さようなら

 今日14時からの決勝戦レッズvsエスパルスを是非見てください。

長谷部という、若くて勢いのある選手がいます。代表キャンプにも呼ばれたのですが、いい選手です。

才能ある選手がその才能を十分に披露する、というような活躍はしませんが、90分間チームの勝利のために全力を尽くし、勝利への執念ゆえに限界を超えるプレーを見せて試合を決めてしまうことがあります。準決勝戦ではまさにそういう活躍を見せてくれました。ロスタイム間際の失点で大宮に延長戦に持ち込まれたあと、現浦和の中心選手であるポンテ不在のなかで、求められている役割を十全にこなし、代表キャンプに呼ばれたことがフロックではないことを証明しました。

 僕はJリーガーのプロフェッショナリズムということを考えると彼とFC東京の今野のことが真っ先に頭に浮かびます。それは彼らが決して才能に溢れているとはいえないタイプの選手達であること、そして僕より大分若いということが大きく作用しているようです。

 「今日の試合は、長谷部が今後代表の中でどのような位置を占めてくるかを占うことにもなるでしょう。」これは、先日の準決勝戦で、延長にもつれこんだときに隣で見ていた人に僕が言った台詞ですが・・・。

 今日もまたそうだというわけです。もっとも試合が始まったらこんなことは考えずにすむくらい両チームのすばらしいパフォーマンスが見れることを期待しています。