デンマークの郊外ジーランドの湖には毎年、野生の鴨が降り立ちます。
その湖に、一人の老人が住んでいました。
老人はその野生の鴨たちに餌を与えました。
時期が来て野鴨は、1万キロを飲まず食わずで飛ぶ渡り鳥として飛んでいきます。
翌年。
また野生の鴨が湖に降り立ちます。
老人はその野生の鴨たちに餌を与えました。
居心地のいい湖です。
ふと、野生の鴨たちは思います。
『このままここに居ればいいじゃないか』
春になり、湖に雪解けの水が山から一気に流れ込みました。
何とか水を避けた鴨もいれば、大半の鴨は水に流され溺れ死にました。
1万キロを数週間飛べる野生の鴨は、安住安楽による本来の生命力を失ったことにより溺れ死んだのです。
これを『野鴨の哲学』といいます。
溺れ死んだ野生の鴨たちは、環境に甘えていた。
『これでよい。ここに居れば、安心だ。』
人間も、楽な所に身を置く程に、溺れ死んだ野生の鴨の様になりかねない。
経営、仕事、学校、趣味、他人との付き合い。
なんとなく朝起きて、なんとなく仕事へ行って、なんとなく一日が終わり、なんとない休日を過ごす。
なんとなくを生きると不安になる。なんとなくを生きると自分が分からなくなる。
『紛れもない自分自身』とは何なのか?
『なんとなく生きてんじゃねぇぞ!』…と自分自身に言えるか。
そう感じさせてくれる『縁』はあるか。
命は感じてこそ燃える。
自ら燃えることを『自燃』といいます。
本来であればこれこそが自然。自然とは自燃することです。
『焼き鳥浩二郎』の大将、小澤浩二郎は私の弟の様な存在です。
彼は焼き鳥を焼きながら、対面で人間と向き合いながら、悩み、苦しみ、考えていました。
他人と向き合う仕事は沢山あります。
話し方・人を動かす技術・話術。書店ではそんな本が山積みされています。
読んでも何も変わらんです。実際にスキルとして身に付いた…と思っている虚像の自分自身もニセモノ。
沢山のスキルを磨いたところで虚像の自分自身が自分自身だと仮面を被ります。
そして仮面を被っている自分自身から逃げる。だから自分自身と向き合う事が恐くなる。
沢山の人間がいる中で、なんとなくを生きない為に自分自身と真剣に向き合った事がある人間が今の日本に何人いるか。
一所懸命に今を生きる為に、なぜ自分自身と向き合おうとしないのか。
『俺(私)は俺(私)のことをよく分かっているよ』
多くの場合、それは虚構・虚勢・仮面を付けた虚像の自分を分かっているだけです。
真剣に自分自身と向き合うことをすると、『未見の我』に会います。
目は口ほどにものをいうのではなく、目は口以上にものをいいます。
今、浩二郎は世界一厳しい研修といわれる『山』に行っています。
55年以上続く『山』には、今を鮮烈に生き為の未見の我がいます。
私も『山』の卒業生です。
だから求め続けられる。
だから命を感じ、燃やせる。
だから今を、鮮烈に生きることが出来る。
私が彼に出会った縁。
彼が私に出会った縁。
縁に一瞬の遅いも早いもありません。
必ず出会うべくして出会います。
だからこそ、自分自身を愛した幅・自分自身が苦しんだ幅・自分自身が哀しんだ幅。
自分自身の『幅』こそが、自分自身の半径50メートルを大切に出来ることに繋がります。
国立に日本一の焼き鳥屋が生まれますよ。
浩二郎の焼いた、
焼き鳥が早く食いたいです。
プライベートブログで恐縮ですm(_ _)m