私には小学校4年生の娘(10歳)と中学二年生(14歳)の息子がいます。
いわゆる現代っ子の、頭でモノを考える世代です。
娘はバスケ・ダンスが好きな、ノリの良い、かわいい奴です。(モテモテなんですよ)
息子は空手から剣道。運動神経はイマイチですが、ここぞという集中力のセンスが良い。
私を尊敬しているので武道を自分で選択しています(文句も多いですが)(変わった奴です)。
二人とも一緒にいて楽しい子供達です。
先日、家族で食事をしている時に些細な話の流れから(政治のニュースからでしょうか)
『日本終わりやん』と息子が発言しました。本人は軽い気持ちです。
現代の頭社会。SNSなどで気軽に発言できるからでしょうか。そのような発言を他でも聞く事がよくあります。
私は親として、どうしても息子の発言に対して放置するわけにもいかず、『おい。気軽にそういうことを言うんじゃねぇ!日本の為に本気で命かけて生きてる人を何人も知ってる...頼むから二度と言うな。』と伝えました。
目は口以上にものを言います。中学二年生。口は何も言えませんが彼の目は、私の心から出た言葉をきちんと理解してくれていました。
我々が住む国の建国記念日。『2月11日』という日を我々はただの祝日くらいにしか教えられていません。
もうすぐハロウィン・クリスマスがあり、日本では一大イベント!…という感じですが、世界では独立記念日や建国記念日の方が圧倒的にお祭り騒ぎです。
日本の国内メディアは海外の独立記念日を一切報じません。
それは自分の国の建国を祝わない我々が世界では珍しい民族なんですよ、、、ということがバレない様に海外の情報を見せないからです。それが今の教育です。
私は息子の発言に対して、親として、日本人として国の為に命を懸けた方に対して申し訳ない気持ちになりました。
彼らは今の私達の生き方を観て何と思うのか。
平和な時代に生きる私達だからこそ出来る事があるのではないか。
それは、『人間が人間という、ど真ん中を生きる』ということなのではないか。
教育が教育の本質から逃げている今。自分が自分のど真ん中を生きなければならない。
それを学ばなければならない。自分の半径50メートルを幸せにする意味を理解しなくてはならない。
右か左かとか、そういう頭の問題ではなく、そういう今の自分自身を見てどう思うかという自分のど真ん中の心が大切なんです。
靖国神社に八千代食堂という店があります。
この店のオーナーは、私の師匠です。
私は偶然ですが、4年前に髙取宗茂という師に出会い、自然と師匠の『生き方』に自分自身が持つ景色を合わせました。
髙取師匠もずっと、俺自身を自分に照らし合わせて4年間大事に観てくれてました。
髙取師匠にも師がおり、その『師』の事を話している髙取師匠が、私が髙取師匠の事を我が院の社員に話している時の様に嬉しく語るんです。
その姿が、刺さる。
無いものは観えない。しかし、無い物を観る事こそ本質。私が彼を観て思う事が、彼が私を観て思う事は全くの別。
しかし、その別に意味が有り、お互いの意味の確信へと繋がるんです。
無い物を観る頭じゃ無い心こそが、それを形にするんです。なっていくんです。
八千代食堂で、鳥濱トメさんのたまご丼が食べられます。そのたまご丼を作っているのが、照屋という私の同志です。
照屋は目がキラキラした奴で、まだ24。されど24。だけれども俺自身が認める同志です。
彼の作ったトメさんのたまご丼を食べて下さい。鳥濱一族の思いを感じますよ。
染みますよ。刺さりますよ。
虚勢・虚構、シャバで武装している己が見えるかもしれません。
私は半径50メートルの人間までしか大切に出来ません。自分自身の『縁』は、50メートルの『円』なんです。
その50メートルの円を大切にしている人と一緒にいるからこそ、それが大きな本物の『縁』になります。
飲まず食わず、1万キロも飛べる野鴨。
では、
『飛ばない野鴨』は、現代の何を表しているか。
OZAWAの哲学。