シュタイナーに習って摂理の行方を考察してみた | UC摂理打開のために360軒ホームチャーチ吟味は必須事項

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2031年アセンションに向けて万全の準備ができたぞ

はじめに

これまで私がルーシェルについて取り上げた内容はご破算にしてください。

 

 

ルーシェルとは聖書の中に足跡を残しているので、今後の摂理の経路を知る上でこのルーシェルの存在は欠かせない。ところでルーシェルとは西側キリスト教文化圏の世界では、堕落天使の長であり、大魔王サタンの異名を持つ、まさにこれ以上にない悪魔の代名詞的存在でもある。それだけに良しにつけ、悪しきにつけ、奴には何かが隠されている。それだけにルーシェルの隠された真の姿を知る事ができれば、我々の歩みを摂理の核心へと導いてくれるヒントを得られるかも知れない。

 

ところでルーシェルを大魔王サタンとする汚名は、あくまでも魔界の巣である西側キリスト教中枢のバチカンと米CIAに情報操作された西側キリスト教文化圏世界だけのお話なのだ。東側世界では聞いたことがない。そもそも考えてみてください。魔界の巣であるバチカンとアメリカのエリート悪魔がルーシェルを名指して「大魔王サタン」と騒いだところで、それ誰が信じられますか?何の信憑性の欠片もなく、説得力はゼロである。

悪魔が支配する西側世界で、悪魔呼ばわりされている存在は、その逆の可能性あり。

 

 

グノーシスでは善と悪の関係を動的作用反作用と捉えているので、悪という要素に対しては人間を進化させて行く上で必要不可欠なものと解釈しています。ですから今後の摂理と向き合うときに「善VS悪」という摂理的概念を出来る限り排除する必要性があると思います。そして「善VS悪」の代替がシュタイナーの言っている「ルシファーVSアーリマン」です。

 

 

 

 

 

 

ルシファー→霊的不可視世界に対する知覚を主体に世界観を構築。芸術、夢見 哲学→人類の中で少数派及び摂理関係者に限られるかも?

 

アーリマン→唯物論・物質主義・理屈→今の人類は圧倒的にアーリマン的世界観をもっている人間が多い。

 

ここでの最大の問題は、ルシファーとアーリマンという二つの対照的な世界観を持つ各々の人間や摂理関係者が3数的立ち位置で、いかにしてこの二つの世界観を統合・調定させ得るのか、そしてレベルアップした世界観を創り出すのかが一つのポイントになって来るのですが、シュタイナーはこの統合・調定させる意識をミカエル意識とかキリスト意識という表現を使っています。あるいは、私としては占星術的に表現すれば、ヘリオセントリック的な太陽の視点から、人生上での物事を解釈する目線を作れれば、ルシファーの世界観とアーリマンの世界観を統合・調定させる事に直結してくると考えています。

補足リンク

 

霊的宇宙と物質宇宙の相関関係で神を考察 | 時が来たら派閥を越えた評議会を作ろう (ameblo.jp)

 

 

ルシファー主体の世界観を持っている人間の方が有利

 

ルシファー主体の世界観を持っている人間は、アーリマンの世界観をすでに凌駕しているので上手く吸収させて、統合、調定するのは比較的やり易い。一方で、アーリマン主体のみの世界観を持っている俗世間の人間は、ルシファーの世界観に対しては断固受け入れないことが予想されるので難しい。増してや、理想世界とか神の摂理とかと言う観念や概念を持っていない。

 

そこでシュタイナーの著書の中で興味深いことは、アーリマンの受肉と来るべき千年王国に関して次のような内容が書かれている事です。要約すると1998年にアーリマンが受肉して地上に人間として誕生し、この人物がアーリマン的千年王国を統治すると言うのであるが、しかしここで言うシュタイナーの「アーリマン的千年王国」という意味は、著書を読んでどこをどう解釈してもルシファー寄りのアーリマン的世界観が拭えないのです。ですからこの真相は地上の物質世界(アーリア)をベースにルシファーの波動が覆い尽くすというニュアンスなのかな。

 

ちょっと話を戻す。

 

そこでルシファーの世界観とアーリマンの世界観を統合・調定させて、もう一段階上のミカエル意識とかキリスト意識に次元を引き上げた時の意識や空間感覚とは一体どんな状態を差すのだろうか。

 

来るべき弥勒の世の5次元世界とは、今我々が生きている4次元世界の一つ上の世界を差します。次元の内訳は3次元空間+時間+意識活動=5次元世界です

ですから最大の問題点は4次元世界で生きている今の我々の意識活動が、時間の中に組み込まれる事によって時間と一体化してしまっている自己同一化の状態から、いかにしてその意識活動を時間から乖離させ、意識活動を時間の上に置く事が出来るかここがポイントになると思います。つまり自己同一化している時間を対象化することです。問題はここまでカバーできたかどうかではなく、その試みが重要であり、試み自体が、ルシファーの世界観とアーリマンの世界観を統合・調定させるメソッドであると思います。

 

補足リンク「時間の認識についてメモ書き」を読んで | 時が来たら派閥を越えた評議会を作ろう (ameblo.jp)