アセンションに向けてどうしても万全の準備をしたい | UC摂理打開のために360軒ホームチャーチ吟味は必須事項

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2031年アセンションに向けて万全の準備ができたぞ

 

2数を超えた3数的立ち位置は全体の核心を掴める

 

 

「絶対信仰。絶対愛。」に関しての深堀

 

 

堕落の動機と経路と逆の道を辿る復帰原理。つまり堕落性を脱ぐための蕩減条件という手法のことだ。この手法では堕落性を除去できない。むしろ堕落性は無意識の領域に閉じ込めてしまう。厄介だ。

 

復帰原理に基づく堕落性を脱ぐための蕩減条件とは、我々に向けて次のように説いている。それは自己を否定して、目の前の怨讐人間を神と同じ立場で愛せよと。この時の当事者における怨讐人間を愛するエネルギーとは、堕落論と復帰原理に基づく論理が基となった信仰=絶対愛が怨讐を愛するエネルギーとなっています。このエネルギーが仮に上手くいって貴方が怨讐人間を愛せたとしても、これは一時的なものであって、貴方の堕落性は無意識の領域に追いやられる。だからちょっと時間が経てば、恨みが蘇り、許しと愛における安定観がまるでない。何故なのか。それは堕落論と復帰原理に基づく論理が基となった信仰=絶対愛とは、一言で言えば、この真相は「気合」の産物であって、真の意味での、知・情・意における第一段階の「知」の部分を消化していないからだ。だから第二段階の「情」、さらには第三段階の「意」という行為がままならない。だから怨讐人間に対する愛と許しのエネルギーに一定観と安定感がない。

 

 

良心と邪心の概念を、心理学的に表現すると「光と影」であるが、しかしこの表現は一見すると「光と闇」の間違いでは無いかと、宗教者である統一関係者は思われるかも知れない。しかし「光と闇」という表現は、その中に「善と悪」の概念を含んでいる。ところで「悪」に対する日月神示の観点とは、悪(試練)は人間を進化させるためには必須事項であると説いている。だから悪(試練)とは「必要悪」となる。これが正論であるならば、「良心と邪心」の概念を「光と闇」とするのではなく、「光と影」という表現の方が適切だろう。しかもグノーシスでは「善と悪」の概念を、宇宙の中で横の関係として力学的な観点から捉えており、「善と悪」の概念と関係性を「動的作用反作用」としている。この表現は日月神示の「必要悪」と同等である。つまり、ここで言う「影」や「反作用」という要素は、物質宇宙が誕生するにあたっては「光」と「動的作用」の付随的ワンセットである。だからこの付随的な要素を人間の知性と理性でもって克服して行く他ない。

 

 

ユングだ!

 

ところで影の現象は、宗教的に重要な意味を持ち、人の生死と関係していた。人の生死は、肉体的な意味の生死と、心理的心霊的な意味の生死がある。

ここでは心理的心霊的な観点でのお話です。人の発達と成長は、心理的心霊的反作用的影の未熟な自己の死をまずもって経験し通過しなければならない。この経験の土台で新しい自己生まれる。

一般的に影は否定的な意味を持つ場合が多いが、この否定性を乗り越えて、自己を発達させねばならない。それは影を復帰原理のように無意識の世界に追いやるのではなく、むしろ影との対決、影を自分自身の否定的側面、欠如側面と真摯に受け止め、3数的位置で明確に意識化し、影を自我に統合することが、自我発達の道であり、自己実現の道個性化への過程であるとユングは唱えていた。

このユングの説を真に理解すると、自分がたとえ強い堕落性を持っていたとしても、もの凄くアセンションに向けて希望が出てくるというのです。

 

この神聖幾何学は何を象徴しているのか