「書を捨てよ、町へ出よう」。有名なこの言葉を残したのは、劇団「天井桟敷」の主宰者・寺山修司である。
しかし、この言葉に元ネタがあることは、あまり知られていない。
『狭き門』や『贋金つくり』などの小説を残したフランスの作家アンドレ・ジッドは、1898年に発表した詩文集『地の糧』の冒頭で「ナタナエルよ、書を捨てよ。町へ出ようではないか」という詩を書いている。言うまでもなく、寺山修司はジッドの詩に影響を受け、自らの評論集に『書を捨てよ、町へ出よう』という題名をつけたことが推測できる。
アンドレ・ジッドの小説は、聖書の引用が多く、仏教の国である日本には、いささか馴染みにくい。ジッドの小説をスラスラと理解しながら読める日本人は、キリスト教に充分な理解があったり、そもそもの「センス」があると断言しても良いだろう。ちなみにぼくは、かなり時間をかけて『狭き門』を読んだが、100%内容を理解できたのかと問われてしまうと、首を縦に振ることはできない。
アンドレ・ジッドといえば、1947年のノーベル文学賞を受賞するきっかけともなった代表作『狭き門』のイメージが強く、ジッドについて詳しくない層からすると「ジッド=狭き門」といった一種の固定観念が生まれているように思える。そのため、「じゃあ手始めにジッドを読んでみよう」として『狭き門』を手に取ったは良いものの、キリスト教的な思想をふんだんに取り入れた本作品は、やはり日本人には少しだけ厳しいものがある。
そんなぼくは、ジッドの小説を読むなら『狭き門』ではなく、『田園交響楽』から読むことを勧めたい。『田園交響楽』は、盲目で白痴である少女ジェルトリュードが、牧師の教育によって様々に触れていくものの、彼女が抱いた理想が高すぎて、開眼手術で目が見えるようになった世界に絶望して死んでしまうといった内容だ。
最終的に死んでしまうという盛大なネタバレをかましてしまったが、ヒロインのジェルトリュードが死んでしまうのは、それほど重要なことではない。「ジェルトリュードは何故死んだのか?」ということが、大切である。
まず、牧師は「自身の信念」に基づいてジェルトリュードに教育を施すが、その「自身の信念」が、いつの間にかジェルトリュードに良いところを見せるべく「恋の対象」にすり替わっていることが鍵となっている。要するに、物語の語り手である牧師は、キリスト教の教えに則って自身の行動を正当化しながらも、傍から見ればジェルトリュードと浮気をしていることが見て理解できる。
ぼくは、ジェルトリュードが死ななければならなかった理由としては、やはり牧師から教えられていた「教育」を素晴らしいものと学習してしまったため、ジェルトリュードが描いた「理想が高すぎた」ということが、安直ではあるが挙げられると思う。
『狭き門』のヒロインであるアリサ・ビュコランにしても、ジッドの小説はなにかとヒロインが死んでしまう。ジッドの小説を読むにあたって、「何故この人は死ななければならなかったのか」と考えることが大事であろう。
また、アンドレ・ジッドは、年上のいとこであるマドレーヌ・ロンドーと結婚したことや、後に映画監督として有名になるマルク・アレグレという同性と恋愛関係に発展するなど、人物の側面も注目して、小説を読み取ってみると良いかもしれない。