以前からお知らせしているように、今、小田原城の近世御用米曲輪を発掘中で、近世地盤の下から後北条時代の庭園遺構が姿を見せつつあります。先日、調査・整備委員会として視察してきましたので報告します。
前回お知らせした以降の新たな発見は、2枚の板碑です。1枚は裏返しにされ、池のほとりの景石、つまり、景色を作るために置かれたものです。裏を返すと、大日如来の種字の下に、「慈父尊霊三十三可年/為志者□/康永元年十一廿三日/成仏得道」と彫られていました。康永元年(1342)の板碑をどこからかもってきて、景石に使ったものです。これは、五輪塔の石を割って護岸の石に使った後北条氏としては、いかにもやりそうなことと思いますが、もう1枚の方は理解に苦しみます。
もう1枚の板碑は、裏返しにしない代わり、種字や文字の部分をわざわざ金のみか何かで削(はつ)って、字が読めないようにしているのです。それは、どうやら立てていたようで、削ったのみの跡が見えてしまい、見苦しくもあります。北条氏政や氏直が、なぜそのようなものを庭石として置いたのか、理解に苦しむところです。もし、類例をご存知でしたら教えてください。
前回お知らせした以降の新たな発見は、2枚の板碑です。1枚は裏返しにされ、池のほとりの景石、つまり、景色を作るために置かれたものです。裏を返すと、大日如来の種字の下に、「慈父尊霊三十三可年/為志者□/康永元年十一廿三日/成仏得道」と彫られていました。康永元年(1342)の板碑をどこからかもってきて、景石に使ったものです。これは、五輪塔の石を割って護岸の石に使った後北条氏としては、いかにもやりそうなことと思いますが、もう1枚の方は理解に苦しみます。
もう1枚の板碑は、裏返しにしない代わり、種字や文字の部分をわざわざ金のみか何かで削(はつ)って、字が読めないようにしているのです。それは、どうやら立てていたようで、削ったのみの跡が見えてしまい、見苦しくもあります。北条氏政や氏直が、なぜそのようなものを庭石として置いたのか、理解に苦しむところです。もし、類例をご存知でしたら教えてください。