以前からお知らせしているように、今、小田原城の近世御用米曲輪を発掘中で、近世地盤の下から後北条時代の庭園遺構が姿を見せつつあります。先日、調査・整備委員会として視察してきましたので報告します。
前回お知らせした以降の新たな発見は、2枚の板碑です。1枚は裏返しにされ、池のほとりの景石、つまり、景色を作るために置かれたものです。裏を返すと、大日如来の種字の下に、「慈父尊霊三十三可年/為志者□/康永元年十一廿三日/成仏得道」と彫られていました。康永元年(1342)の板碑をどこからかもってきて、景石に使ったものです。これは、五輪塔の石を割って護岸の石に使った後北条氏としては、いかにもやりそうなことと思いますが、もう1枚の方は理解に苦しみます。
もう1枚の板碑は、裏返しにしない代わり、種字や文字の部分をわざわざ金のみか何かで削(はつ)って、字が読めないようにしているのです。それは、どうやら立てていたようで、削ったのみの跡が見えてしまい、見苦しくもあります。北条氏政や氏直が、なぜそのようなものを庭石として置いたのか、理解に苦しむところです。もし、類例をご存知でしたら教えてください。
先日、宇都宮で講演があり、夜だったので泊まり、次の日、市内の史跡めぐりをして帰ってきました。宇都宮城址には30年ほど前に行ったことがありましたが、土塁が少し残っていて、あと、児童公園のようになっていて、がっかりしたことを覚えています。
宇都宮城は戊辰戦争で焼かれ、その後、周囲が市街地化してしまい、城としての痕跡が全くといってよいほどなくなっていました。ようやく史跡としての整備に入ったのが平成元年で、本丸跡の発掘調査からはじめ、平成19年、土塁・堀・築地塀と2基の櫓(清明台・富士見櫓)が復元されました。土塁はあくまで外観復元で、内部に「宇都宮城ものしり館」などが入っていますので、当時のままというわけにはいきませんが、一度、市街地化してしまったところを旧状にもどそうという市の努力は評価していいと思いました。

栃木では、これまで印象に残るお酒にめぐりあわなかったのですが、今回、宇都宮酒造(株)の四季桜の「花宝」と、(株)せんきんの「仙禽」を呑み、「栃木にもおいしいお酒がある」と宣伝したくなりました。
昨日、伊丹市・伊丹市教育委員会・公益財団法人柿衛文庫・朝日新聞社の主催で、兵庫県伊丹市において私の講演会がありました。定員1200人のいたみホールが会場で、申込みが多く、抽選になったということで、地元の荒木村重に寄せる思いが伝わってきます。
村重というと、どうしても、「家族・家臣を捨て、一人生きのびようとした卑怯者」といったレッテルが貼られていますが、それは、『信長公記』が、「我身一人助かりたい」と記したことに起因していると思われます。勝者の論理であり、村重の論理は別でした。
この日の講演で、私は、村重は、「有岡城は自分なしでも守りぬける」と判断し、自身は、毛利氏との連絡がつけやすい尼崎城に移ったのだという考え方を示しました。ところが村重にとって、ここに誤算が生じます。天正6年(1578)11月6日、織田水軍が木津川河口で毛利水軍を破ったのです(第2次木津川河口の戦い)。これで瀬戸内の制海権は織田方に握られてしまったのです。
村重が官兵衛を幽閉したのはなぜか、殺さなかったのはなぜかについてもお話ししました。