『ジパング倶楽部』連載の「いざ、城へ参ろう」で、今度、多賀城を取り上げることになりました。多賀城には、10年程前にも行っているのですが、整備が進んでいるということを聞いていたので、最新の情報を知るため、行ってきました。
JR多賀城駅近くの多賀城市文化センター内に多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室があることを聞いていたので、そこに立ち寄り、各種資料をもらい、また展示をみて、概要をつかみました。しかし、そこから、多賀城址はだいぶ距離がありました。
政庁跡および多賀城碑のあたりは以前とくらべ大きなちがいはありませんでした。
JR国府多賀城駅の駅前の「館前遺跡」は前回きたときにはありませんでした。現在は特別史跡に追加指定されています。
以前きたときに見落としていました多賀城廃寺跡も今回はじっくり見ることができました。
帰りに塩釜市の(株)佐浦の「浦霞」を呑んで帰ってきました。
新聞やテレビでも話題になっている新発見の「石谷家文書」が7月19日から林原美術館で一般公開されました。19日は仕事が入っておりましたので、行くことができたのは20日でした。
19日は、岡山県苫田郡鏡野町で講演を頼まれておりました。津山市の西隣の町です。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」がらみで、官兵衛が毛利方との和平交渉を進めるにあたり、美作の武将たちがどう動いたのかの話も含めました。一つは町内にある沖ノ構で、秀吉軍が「中国大返し」で兵を引いたあと、残った宇喜多勢と毛利勢が戦った遺跡などもあります。町教育委員会の人にお願いして、沖ノ構跡も見てきました。
その日は津山のホテルに泊まりました。津山城に行くときは、いつもガイド役で、写真を撮りたくても人が映ってしまうので、できれば誰もいない朝に行って、無人の津山城を写真に撮りたいと考えていました。朝8時40分の開門を待って、文字通り一番乗りを果たすことができました。
津山からJR津山線で岡山に出て、林原美術館に直行しました。石谷家というのは幕府奉公衆の家で、文書に出てくる石谷光政(空然)の娘が長宗我部元親の正室となっています。光政の子がこれも文書に出てくる石谷頼辰で、その実弟が斎藤利三です。47通の文書が3巻の巻物になっているため、スペースの都合で、全部展示されていたわけではありませんが、石谷頼辰宛長宗我部元親書状、斎藤利三宛長宗我部元親書状をじっくり見ることができました。

今回、津山で、津山の地酒「加茂五葉」(多胡本家酒造場)を呑んできました。
「軍師官兵衛」で本能寺の変が放送されたあと、何人かの人から「濃姫が本能寺の変で信長と一緒になって戦っていたけど、あれは本当か?」と聞かれました。実は、私はかなり前、『織田家の人びと』(河出書房新社)の中で濃姫を取りあげ、「私は、濃姫は本能寺の変までは生きていないと考えている。濃姫がたすきがけに薙刀をもち、夫信長とともに本能寺で防戦する姿はたしかにドラマチックではあるが史実ではあるまい。」と書いています。
その後、考え方が変わったわけではありません。ただ、濃姫がいつ亡くなったのか、あるいは離縁されたのかを物語る史料がないのです。そうなると、NHKサイドとしては、「本能寺の変まで生きていた可能性もありますね」ということになります。このあたりが時代考証にとっては泣きどころです。
ただ、今回の本能寺では、信長が2006年の「功名が辻」のときのように鉄砲を持ち出すことだけは阻止しました。