今年は織田信長が岐阜城に入城し、それまで城を稲葉山城、城下を井口といっていたのを両方岐阜として450年ということで、岐阜市では「織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年記念」と銘打って、さまざまなイベントが組まれています。

その一環として、先日、岐阜市で「岐阜命名シンポジウム」が開かれ、私が基調講演として「織田信長はなぜ岐阜と命名したのか」を話し、そのあと、美濃源氏フォーラム事務局本部の井澤康樹理事長との対談を行ってきました。

講演では、従来から知られていた政秀寺の沢彦宗恩のアドバイスのほか、横山住雄氏が『織田信長の尾張時代』の中で紹介されていた「蘭叔録」を取りあげ、崇福寺の住持栢堂景森から信長家臣鳴海助右衛門に「岐阜」を勧めたという可能性について話をしました。

対談の中で、井澤さんは、「岐」の字と土岐とのつながりを強調され、少林寺の住持東陽英朝の「少林無孔笛」に出てくる、岐山・岐陽・岐阜の中で、どうして信長が岐阜を選んだのかについて自説を披露していました。私自身も勉強になったシンポジウムでした。

静鉄観光サービスの企画で「神君伊賀越え」のルートを、貸切バスを使って主なところを歩いてきました。30年以上も前、乗用車で何ヵ所かは立ち寄ったことがありましたが、大型バスで行けるのか不安だったので添乗員の野澤さんにあらかじめ下見してもらい、また、ルート上の甲賀の方は行っていなかったので、地元の甲賀忍術研究会の渡辺俊経さん、西田武史さんのお二人に同乗してもらいました。

木津川を渡り、最初に訪ねたのが宇治田原町の山口城址です。ここで家康が小休止したといわれています。ただ、城としての遺構はわかりません。続いて同じ宇治田原町の遍照院にも寄りました。

今回のコースの最大の難所が近江の信楽の小川城址でした。ここは私もはじめてで、甲賀忍術研究会のお二人に案内され、山頂まで登ってきました。家康は多羅尾光俊のこの城で1泊したといわれています。その先は、加太まで、家康一行がどこを通ったのか諸説ありまして、桜峠経由で甲賀市の明王寺、ついで伊賀市の徳永寺に寄りました。

これまで私は「神君伊賀越え」と表現し、本にも書いてきましたが、甲賀も重要だということを認識し、これからは「甲賀・伊賀越え」としたいと思います。

道中、造り酒屋が1軒くらいあるだろうと期待していたのですが、1軒もなく、立ち寄った関のドライブインで四日市市川島町丸彦酒造(株)の鈴鹿(すずしか)が売られていたので買入してきました。

日本城郭協会学生研究会以来の友人で、京都在住の橋本盾夫さんから『京都市文化財ブックス第31集 天下人の城』を送ってもらいました。読み進んでいくと、「信長の居城から親王の居城へ」というページがあり、発掘調査に基づいた二条御新造、すなわち二条御所の位置がはっきり図示されていました。これまで、私も「このあたりだろう」と思ってはいましたが、これだけ場所が特定された図ははじめてだったので、早くこの目で確かめたいと考えていました。

ちょうど、滋賀県大津での用があり、次の日大阪だったので、京都に泊まり、その場所を歩いてきました。二条通りのすぐ南で、烏丸小路と室町小路の間が二条御新造があったところで、隣接して、室町小路と町尻小路にはさまれたところが妙覚寺城の場所になります。現在はビルとふつうの住宅地と化していますが、「このあたりが織田政権時代の京都の政治の中心地だったのだ」と、信長・信忠時代に思いを馳せました。