今年は織田信長が岐阜城に入城し、それまで城を稲葉山城、城下を井口といっていたのを両方岐阜として450年ということで、岐阜市では「織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年記念」と銘打って、さまざまなイベントが組まれています。

その一環として、先日、岐阜市で「岐阜命名シンポジウム」が開かれ、私が基調講演として「織田信長はなぜ岐阜と命名したのか」を話し、そのあと、美濃源氏フォーラム事務局本部の井澤康樹理事長との対談を行ってきました。

講演では、従来から知られていた政秀寺の沢彦宗恩のアドバイスのほか、横山住雄氏が『織田信長の尾張時代』の中で紹介されていた「蘭叔録」を取りあげ、崇福寺の住持栢堂景森から信長家臣鳴海助右衛門に「岐阜」を勧めたという可能性について話をしました。

対談の中で、井澤さんは、「岐」の字と土岐とのつながりを強調され、少林寺の住持東陽英朝の「少林無孔笛」に出てくる、岐山・岐陽・岐阜の中で、どうして信長が岐阜を選んだのかについて自説を披露していました。私自身も勉強になったシンポジウムでした。