どうも( ^_^)/
やっぱりナイツ土屋を初見では分からなかった者です。
Creepy Nutsは余裕で分かったのに。
浅草キッド

浅草のストリップ劇場『フランス座』の楽屋。
たけしは、師匠の深見千三郎が軍需工場の事故で左手の指を全損していることを知って、それを“ネタ”に本人相手の不謹慎な“ボケ”をかます。
下がる室温。
堅い空気。
沈黙。
無表情。
沈黙。
狼狽。
沈黙。
蒼白。
ようやく深見が神妙に口を開く。
タケのボケに“ノリツッコミ”で答える。
笑い声とともに弛緩する空気。まさに緊張と緩和。エンターテインメントの基本を押さえた見事な芸人のやり取りです。
「笑われるな、笑わせろ」
「食えなくても服装には気を遣え」
「いつなんどきもボケて笑いを取れ」
深見は戦中戦後世代の厳格な芸人でありながら決してオールドスクールなだけでなく、ただ無目的に弟子を抑えつける類のやり方はせず、酒は手酌で飲むし若手を廊下に立たせて待たせるような真似もしない。
芸もなくオロオロする様に手を叩いて笑うような“安い”客と事を構えることもいとわない。TVを嫌い、漫才を否定しつつ「よそのことは知らねぇ」と配慮する。
厳しさと大らかさ、頑固さと柔軟さを兼ね備えた重層的な大人物。であると同時に、大泉洋さん演じる深見には隠しきれない弱さが香ります。
細身のスーツとオシャレなハットをビシッと着こなし、ファン(タニマチ)にも媚びず、何の芸もない武を「タケ」と呼んで可愛がり、飯をおごり、大家にも多めに家賃を渡す気前と気風の良い粋な江戸っ子―――というのはやせ我慢も込みの演出です。
フランス座の経営は厳しく、番頭の奥さんがガッチリ家計を握っていなければ心許ない。かつての弟子だった東八郎から引退をすすめられ激怒して追い返してしまう。もっというと深見は北海道出身で生粋の江戸っ子ではない。
今風の言い方だとブランディング。オシャレは我慢という言葉があるように(あるか? あるってことにしておこう)自己プロデュースをやめたら芸人としてお終いという意識もあったのか。
話を楽屋のシーンに戻します。
そうした人物像を見てからだと、非常に味わい深く思えてならないわけです。
確かに不謹慎だしひょっとしたら深見も少し傷ついたかもしれない。
でもこれは深見がたけしに教えた芸人魂だから、ここで退くわけには行かないというところであって、「これがタケの笑いなんだな」と受け入れて応えてやった、そんな優しさが垣間見えるのです。
これは史実だろうか不明ですが、こんにちまで続くビートたけしのアナーキーな芸風をきっと深見はこうして受け入れたのだろうなと、そう感じさせる雰囲気があります。
芸風についてもう一ついや二つ。二言目には「バカ野郎この野郎」な言葉遣いとともにやはりタップダンスについて触れずにはいられない。
映画のプロローグ、暗いTVセットの裏で一人タップを踏む壮年たけし、その静かな音と間を聞いたときに「これは良い映画だ」と思いました。
「タップはダンスではなくミュージック」です。と、特に誰から聞いたわけでも言ったわけでもなく勝手に俺がそう思っているだけのことなんですが。
音楽とはなにか、すなわちリズムメロディハーモニーです。
ツービートというコンビ名が示すように、ビートたけしの芸は緩急自在なリズムが信条、それに乗せて目を背けそうな不謹慎ネタのメロディをつるりと聞かせ、「よしなさいやめなさい」なきよしとの漫才がハーモニーを生む。
それを培ったのがタップ。ビートたけしの“音楽性”はタップが培ってくれているはずです。
映画自体もとても“音”がいい。ミュージカルではないんだけど、明らかに意識はあって、適度に音を無くしブレイクを入れる間の取り方も上手いです。
そしてそのテンポの中で笑いを入れていく。集団コント・漫才・漫談・音ネタ・人情・不謹慎も下ネタもエロネタも拾う。
「日本の『お笑い』とはこれだ」と見せる意識が非常に強い。
劇団ひとり監督は『浅草キッド』という題材で本邦の豊かなお笑い文化へラブレターをしたためたのかもしれません。
『浅草の深見』を演じた大泉洋さんは、映像もほとんど残っていない伝聞と伝説だけが知れ渡っている御大を、“見栄”で表現しています。あくまでもルーツは北の大地。成り上がりの繊細さ。隠しきれない人の良さ。
また大泉さんのスタイルの良さを存分に生かした役でもありました。
ほとんど少年といってもいい年齢から『世界のキタノ』になった現代まで、松村邦洋と監督の熱心な演技指導(断じてモノマネ指導ではない)を受けた柳楽優弥さんの“タケ”は、ややシャイで可愛らしい。フライデーは襲撃しなさそう。
スタイリッシュな深見と対するように、雰囲気はずんぐりと丸いです。応援したくなる雰囲気を出すのがとても上手いと思いました。
ネットフリックスで公開中、是非観てみてください。