ライブハウスの最後尾より -8ページ目

ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

 

吹き替え版で観たのでウィレム・デフォーの顔と山路和弘さんの声の演技はすごいなって改めて思った者です。

 

 

スパイダーマン

ノー・ウェイ・ホーム

 

 

 

ドクター・ストレンジの秘術とピーターのわがままでサム・ライミ監督版のスパイダーマンバースから飛ばされてきたノーマン・オズボーンは、一時的にゴブリンの人格支配から逃れ、途方に暮れているところをメイおばさんに助けられる。

 

憔悴しきった表情でこう言います。

 

「家にある場所に帰ってもそこは自分の家じゃない。会社もない。息子もいない」

 

 

トム・ホランドを主演に据え、アヴェンジャーズの一員として活躍してきた今シリーズの世界にはグリーンゴブリンはいません。

 

なぜなら、ゴブリン誕生の始まりとなるオズコープ社が存在しないからです。

 

当然、社長のノーマンも息子のハリーもいない。

 

ゴブリンは生まれようがない。

 

 

その代わり、こちらの世界にはスターク社がある。

 

こっちでは、すべてスターク社を発端とした生まれたヴィラン(ヴァルチャー・ミステリオ)がピーターに襲い掛かってくる。

 

そしてピーター自身も、トニー・スターク=アイアンマンの薫陶と支援を受けて鍛えられたヒーローというところで、MCU版スパイダーマンはスターク社VSアンチスターク社の戦いだったといえます。

 

味方が頼りになればなるほど、敵もより強大に手強くなっていく。

 

大災厄だったサノスをどうにか退けたと思ったら、今度は自分の正体をフェイクニュースとともに世界中にばらされてしまう。

 

こうなったのは、ピーター自身の責任というより『スターク社製ヒーロー』スパイダーマンであることが原因だった。

 

 

しかし師であり父のようでもあったトニーももういない。

 

 

一作目ではホームカミング(文化祭みたいなもの?)をやった。

二作目は修学旅行に行った。

三作目は、MJやネッドとともにMITを受験します。

 

おそらく今作のテーマは『進路』なのでしょう。つまり『卒業』です。

 

 

ピーターが進む道はヒーローらしくスパイダーマンらしく困難なものです。

 

 

しかし摩天楼をスイングする姿を見ると不思議とホッとしたような感慨に浸ってしまいました。

 

 

ピーター、卒業おめでとう。

 

 

どうも( ^_^)/

 

一昨年風邪をひいてから寝汗を恐れるようになってしまった者です。

 

あったかくし過ぎるのも問題です。

 

 

カミュ/ペスト

 

 

アルジェリアのオラン市。

 

始まりはネズミの大量死。

 

次にアパートの管理人が死んだ。

 

熱病が流行し、医師が声をあげ、街が閉ざされた。

 

何の前触れもなく表れた理不尽と不条理の支配を描く物語はこうして始まります。

 

冒頭、デフォーの『ペスト年代記』を

 

ある種の監禁状態を別のものによって表すことは、どんなものであれ現実に存在する物を存在しないあるものによって表すのと同じくらい、理にかなったことである

 

と、引用しているように、この小説は有名な細菌感染症の市中パンデミックを描くことで、ナチスドイツの統制下にあった第二次大戦中のフランス(アルジェリアは当時フランスの植民地)の人々が被った困難を伝えようとした作品です。

 

だから、事細かに書かれる感染症の恐怖はヴィシー傀儡政権におけるナチスの専横であり、それに向かう医師や有志の保険隊は反ナチスのレジスタンスなわけです。

 

その証拠に、というのか、感染症を描く上で不足している描写がひとつあります。

 

マスクです。

 

わざわざ書く必要もないといえばそれまでですが、これが書かれるよりずっと前のスペイン風邪大流行でも着用が奨励されていたマスクを誰も着けている様子がないのです。

 

だからこそ、この小説は多面的かつ多層的な読み方ができる。

 

病気に注目し過ぎるとただのドキュメンタリーですが、『ペスト』はとにかく“人”を描いている。

 

 

主人公格の医師リユーは結核と思われる高山地で療養中の妻と引き離されることが分かっていながら公衆衛生と公共の利益のため街の封鎖を強く進言する。

 

スペイン人旅行者のジョン・タルーは「無意味なものを記述するという方針に従ったかのような、きわめて特殊な記録」を書きつつリユーとともに保険隊を結成する。

 

新聞記者のランベールは予期せぬ感染症で妻と引き離され、封された街からの脱出を画策し続ける。

 

うだつの上がらない市役所員のグランはいつまでも完成しない小説を書き続けていたが、保険隊で活躍する。

 

街の偏屈者のコタールは疫病前には自殺未遂をするほどだったが、なぜかペスト流行語から元気になっていく。

 

 

この最後の二人、グランとコタールのことが特に気に入りました。

 

それぞれに辿る運命は対照的で、かつ象徴的です。

 

(前略)リユーは安らいだ気持ちでいられた。このような印象を抱くのがばかげているとは分かっていたが、けっこうな趣味に熱中する慎ましい公務員がいる、そんな町にペストがほんとうに居座ることができるとは信じられなかった。まさしく、ペストの渦中にこのような熱中のための余地があるとは想像できなかったし、だからこそ彼は、事実、我が市民たちにあってはペストに未来はないと判断したのである。(P.73)

グランは、自分の隠れた優秀さに気付いていないタイプの人間です。

 

危機に際して良い意味で変わらない。そして他者からその有能さに気付いてもらう。そのマイペースさが本人さえ知らない希望になる。

 

さながら『失われた時を求めて』のように、最後まで彼の小説は完成しませんが、良い未来に向かっていることを予期させます。

 

彼(コタール)はオランの住民の矛盾を正しく判断している。彼らは、自分たち同士を近づけてくれる温かさの必要を痛切に感じながらも、お互いを遠ざける不信感のため、それに身をゆだねることができないのだ。隣人を信用することはできず、知らないうちにペストを貰い、うっかりしている隙に感染させられるかも知れないことがよく分かっているのだ。(P.291)

ペストを前に悪い意味で変わってしまったのがコタールであるといえます。

 

それまではそれこそ自殺未遂を起こすほど繊細で何かに怯えている小金持ちの小男だったのが、街が封鎖され変に気が大きくなり「私は知っていた」という言動を繰り返す。

 

彼の態度は1999年に『ノストラダムスの予言』を理由に夏休みの宿題をすっぽかした小学生そのものであって、やがて必ずやってくる運命を疑わしい理由で先延ばしにしているだけです。

 

コタールにとってペストは永遠であって欲しかった。

 

でも永遠に続く疫病はないです。

 

自分は何も変わらないのに世界の変化で都合のいい部分だけをつまみ食いしているから、ペスト終息後の彼の運命はかなり悲惨です。

 

理不尽はいつでもやってくる。

 

そしてそれは必ず終わるのです。

 

しかし、彼はこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた。これは成し遂げねばならなかったことの証言でしかなく、そしてまた、おそらく、聖者にはなれずとも災禍を受け入れることを拒否し、医者たらんと努力するあらゆる人々が、身や心が引き裂かれても、恐怖とその執拗な武器に対抗して、成し遂げねばならないだろうことの証言でしかありえなかったのだ。(P.454)

 

 

どうも( ^_^)/

 

やっぱりナイツ土屋を初見では分からなかった者です。

 

Creepy Nutsは余裕で分かったのに。

 

浅草キッド

 

 

浅草のストリップ劇場『フランス座』の楽屋。

 

たけしは、師匠の深見千三郎が軍需工場の事故で左手の指を全損していることを知って、それを“ネタ”に本人相手の不謹慎な“ボケ”をかます。

 

下がる室温。

堅い空気。

沈黙。

無表情。

沈黙。

狼狽。

沈黙。

蒼白。

 

ようやく深見が神妙に口を開く。

 

タケのボケに“ノリツッコミ”で答える。

 

笑い声とともに弛緩する空気。まさに緊張と緩和。エンターテインメントの基本を押さえた見事な芸人のやり取りです。

 

 

「笑われるな、笑わせろ」

「食えなくても服装には気を遣え」

「いつなんどきもボケて笑いを取れ」

 

深見は戦中戦後世代の厳格な芸人でありながら決してオールドスクールなだけでなく、ただ無目的に弟子を抑えつける類のやり方はせず、酒は手酌で飲むし若手を廊下に立たせて待たせるような真似もしない。

 

芸もなくオロオロする様に手を叩いて笑うような“安い”客と事を構えることもいとわない。TVを嫌い、漫才を否定しつつ「よそのことは知らねぇ」と配慮する。

 

厳しさと大らかさ、頑固さと柔軟さを兼ね備えた重層的な大人物。であると同時に、大泉洋さん演じる深見には隠しきれない弱さが香ります。

 

 

細身のスーツとオシャレなハットをビシッと着こなし、ファン(タニマチ)にも媚びず、何の芸もない武を「タケ」と呼んで可愛がり、飯をおごり、大家にも多めに家賃を渡す気前と気風の良い粋な江戸っ子―――というのはやせ我慢も込みの演出です。

 

フランス座の経営は厳しく、番頭の奥さんがガッチリ家計を握っていなければ心許ない。かつての弟子だった東八郎から引退をすすめられ激怒して追い返してしまう。もっというと深見は北海道出身で生粋の江戸っ子ではない。

 

今風の言い方だとブランディング。オシャレは我慢という言葉があるように(あるか? あるってことにしておこう)自己プロデュースをやめたら芸人としてお終いという意識もあったのか。

 

 

話を楽屋のシーンに戻します。

 

そうした人物像を見てからだと、非常に味わい深く思えてならないわけです。

 

確かに不謹慎だしひょっとしたら深見も少し傷ついたかもしれない。

 

でもこれは深見がたけしに教えた芸人魂だから、ここで退くわけには行かないというところであって、「これがタケの笑いなんだな」と受け入れて応えてやった、そんな優しさが垣間見えるのです。

 

これは史実だろうか不明ですが、こんにちまで続くビートたけしのアナーキーな芸風をきっと深見はこうして受け入れたのだろうなと、そう感じさせる雰囲気があります。

 

 

芸風についてもう一ついや二つ。二言目には「バカ野郎この野郎」な言葉遣いとともにやはりタップダンスについて触れずにはいられない。

 

映画のプロローグ、暗いTVセットの裏で一人タップを踏む壮年たけし、その静かな音と間を聞いたときに「これは良い映画だ」と思いました。

 

「タップはダンスではなくミュージック」です。と、特に誰から聞いたわけでも言ったわけでもなく勝手に俺がそう思っているだけのことなんですが。

 

音楽とはなにか、すなわちリズムメロディハーモニーです。

 

ツービートというコンビ名が示すように、ビートたけしの芸は緩急自在なリズムが信条、それに乗せて目を背けそうな不謹慎ネタのメロディをつるりと聞かせ、「よしなさいやめなさい」なきよしとの漫才がハーモニーを生む。

 

それを培ったのがタップ。ビートたけしの“音楽性”はタップが培ってくれているはずです。

 

 

映画自体もとても“音”がいい。ミュージカルではないんだけど、明らかに意識はあって、適度に音を無くしブレイクを入れる間の取り方も上手いです。

 

そしてそのテンポの中で笑いを入れていく。集団コント・漫才・漫談・音ネタ・人情・不謹慎も下ネタもエロネタも拾う。

 

「日本の『お笑い』とはこれだ」と見せる意識が非常に強い。

 

劇団ひとり監督は『浅草キッド』という題材で本邦の豊かなお笑い文化へラブレターをしたためたのかもしれません。

 

 

『浅草の深見』を演じた大泉洋さんは、映像もほとんど残っていない伝聞と伝説だけが知れ渡っている御大を、“見栄”で表現しています。あくまでもルーツは北の大地。成り上がりの繊細さ。隠しきれない人の良さ。

 

また大泉さんのスタイルの良さを存分に生かした役でもありました。

 

 

ほとんど少年といってもいい年齢から『世界のキタノ』になった現代まで、松村邦洋と監督の熱心な演技指導(断じてモノマネ指導ではない)を受けた柳楽優弥さんの“タケ”は、ややシャイで可愛らしい。フライデーは襲撃しなさそう。

 

スタイリッシュな深見と対するように、雰囲気はずんぐりと丸いです。応援したくなる雰囲気を出すのがとても上手いと思いました。

 

 

ネットフリックスで公開中、是非観てみてください。