どうも( ^_^)/
一昨年風邪をひいてから寝汗を恐れるようになってしまった者です。
あったかくし過ぎるのも問題です。
カミュ/ペスト
アルジェリアのオラン市。
始まりはネズミの大量死。
次にアパートの管理人が死んだ。
熱病が流行し、医師が声をあげ、街が閉ざされた。
何の前触れもなく表れた理不尽と不条理の支配を描く物語はこうして始まります。
冒頭、デフォーの『ペスト年代記』を
ある種の監禁状態を別のものによって表すことは、どんなものであれ現実に存在する物を存在しないあるものによって表すのと同じくらい、理にかなったことである
と、引用しているように、この小説は有名な細菌感染症の市中パンデミックを描くことで、ナチスドイツの統制下にあった第二次大戦中のフランス(アルジェリアは当時フランスの植民地)の人々が被った困難を伝えようとした作品です。
だから、事細かに書かれる感染症の恐怖はヴィシー傀儡政権におけるナチスの専横であり、それに向かう医師や有志の保険隊は反ナチスのレジスタンスなわけです。
その証拠に、というのか、感染症を描く上で不足している描写がひとつあります。
マスクです。
わざわざ書く必要もないといえばそれまでですが、これが書かれるよりずっと前のスペイン風邪大流行でも着用が奨励されていたマスクを誰も着けている様子がないのです。
だからこそ、この小説は多面的かつ多層的な読み方ができる。
病気に注目し過ぎるとただのドキュメンタリーですが、『ペスト』はとにかく“人”を描いている。
主人公格の医師リユーは結核と思われる高山地で療養中の妻と引き離されることが分かっていながら公衆衛生と公共の利益のため街の封鎖を強く進言する。
スペイン人旅行者のジョン・タルーは「無意味なものを記述するという方針に従ったかのような、きわめて特殊な記録」を書きつつリユーとともに保険隊を結成する。
新聞記者のランベールは予期せぬ感染症で妻と引き離され、封された街からの脱出を画策し続ける。
うだつの上がらない市役所員のグランはいつまでも完成しない小説を書き続けていたが、保険隊で活躍する。
街の偏屈者のコタールは疫病前には自殺未遂をするほどだったが、なぜかペスト流行語から元気になっていく。
この最後の二人、グランとコタールのことが特に気に入りました。
それぞれに辿る運命は対照的で、かつ象徴的です。
(前略)リユーは安らいだ気持ちでいられた。このような印象を抱くのがばかげているとは分かっていたが、けっこうな趣味に熱中する慎ましい公務員がいる、そんな町にペストがほんとうに居座ることができるとは信じられなかった。まさしく、ペストの渦中にこのような熱中のための余地があるとは想像できなかったし、だからこそ彼は、事実、我が市民たちにあってはペストに未来はないと判断したのである。(P.73)
グランは、自分の隠れた優秀さに気付いていないタイプの人間です。
危機に際して良い意味で変わらない。そして他者からその有能さに気付いてもらう。そのマイペースさが本人さえ知らない希望になる。
さながら『失われた時を求めて』のように、最後まで彼の小説は完成しませんが、良い未来に向かっていることを予期させます。
彼(コタール)はオランの住民の矛盾を正しく判断している。彼らは、自分たち同士を近づけてくれる温かさの必要を痛切に感じながらも、お互いを遠ざける不信感のため、それに身をゆだねることができないのだ。隣人を信用することはできず、知らないうちにペストを貰い、うっかりしている隙に感染させられるかも知れないことがよく分かっているのだ。(P.291)
ペストを前に悪い意味で変わってしまったのがコタールであるといえます。
それまではそれこそ自殺未遂を起こすほど繊細で何かに怯えている小金持ちの小男だったのが、街が封鎖され変に気が大きくなり「私は知っていた」という言動を繰り返す。
彼の態度は1999年に『ノストラダムスの予言』を理由に夏休みの宿題をすっぽかした小学生そのものであって、やがて必ずやってくる運命を疑わしい理由で先延ばしにしているだけです。
コタールにとってペストは永遠であって欲しかった。
でも永遠に続く疫病はないです。
自分は何も変わらないのに世界の変化で都合のいい部分だけをつまみ食いしているから、ペスト終息後の彼の運命はかなり悲惨です。
理不尽はいつでもやってくる。
そしてそれは必ず終わるのです。
しかし、彼はこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた。これは成し遂げねばならなかったことの証言でしかなく、そしてまた、おそらく、聖者にはなれずとも災禍を受け入れることを拒否し、医者たらんと努力するあらゆる人々が、身や心が引き裂かれても、恐怖とその執拗な武器に対抗して、成し遂げねばならないだろうことの証言でしかありえなかったのだ。(P.454)