ライブハウスの最後尾より -9ページ目

ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

 

 

芸術を作ってしまった者です。

 

餅って目いっぱい焼くとこんなんなるんですね。

 

オーストラリアの蟻塚みたいです。

 

 

こちらは年末にベランダで撮った太陽の写真です。

 

雪雲に覆われて非常に終末的な光景だったのですがまったく伝わりませんね。

 

世界は終わることもなく2022年です皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

俺は正月三が日を終えてようやくネットに繋ぎました。

 

毎年、年始は休繋日(きゅうけいび)と称してネット断ちするのが恒例となっているのです。

 

それで何をするかといえば、映画を観ながら箱根駅伝を観ながら積んでいた小説を読むという狂ったマルチタスクに挑戦したり、

NHKのドキュメンタリーや『相棒』元旦スペシャルなど観ながら歌詞を書いたり、

そうして描き溜めていた歌詞に曲を付けたり、

甥と姪のお世話なども少しだけしたり、

年末に大掃除をやるのは実は非合理的なのではないかというふと浴びた天啓に導かれるままに徹底的なゴミ捨てと部屋のプチ模様替えをしたりと、

 

別にネット絶ったくらいじゃ特に何も変わりません。

 

ただ、余計かつ不必要な情報に惑わされずに済んだという部分では、非常に快適でした。

 

ブログどころかLINEもTwitterもFacebookもなにも触れなかったのでまぁまぁ通知が溜まっているのは見ないことにしてですね。

 

良くも悪くも自分は何もできない小市民であって広くニュースだの近況報告だの呟きだのを摂取してもあまりQOLは上がらないことがハッキリしました。

 

むしろ日常に嫌な雑音が混じって脳に澱(おり)がたまっていたようです。

 

ある種の瀉血(しゃけつ)を果たしたような(やったことないけど)スッキリした気分です。デトックスです。

 

無駄に繋がっていない良い程度の孤独がもたらされ、自分自身のこと、身の回りについて深く考える余裕が生まれました。

 

今日もこうして少しだけブログに思ったことや感じたことを書いたらとっとと閉じて思索に戻ろうと思います。

 

それではまた来年―――とはいいませんが、よいお年を。

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

 

肉に肉を重ねていく姿勢、嫌いじゃない者です。

 

たまにはチョコとニワトリ以外のものを食べたいヴェノムが家出する話でした。

 

ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ

 

 

・“弱い”ヴェノムの生存戦略

 

地球においてシンビオートはとても弱い生物です。

 

他の動物に寄生せねば捕食できないのに細胞の合わない宿主をすぐ死なせてしまう。

 

今回はヴェノムから別れた細胞が連続殺人鬼に寄生しカーネイジになるというストーリーですが、それが“増殖”に当たるのか、単なる“分裂”でしかないのか分かりません。

 

増えることもできないのであれば、それは地球上におけるウイルスより弱いといえます。最弱です。

 

そんな己の脆弱性を分かっているのか、ヴェノムは今作でかなり宿主のエディに従順です。

 

持ちつ持たれつの共生関係でも不満は募るものです。

 

二人それぞれに至らなかったことで大喧嘩します。

 

しかし街ではカーネイジが暴れている。

その発端はエディ&ヴェノムにある。

意地を張っている場合ではない。

 

エディは謝り、ヴェノムはそれを受け入れて許します。

 

さてこの場面、いかにも主導権はヴェノムにあるように思えて、実のところ、生殺与奪の権を握っているのはエディの方です。

 

エディは別にヴェノム(シンビオート)なんか無くても生きていけます。カーネイジだって放っておけばいい。火に弱いのは向こうも同じ、ナパームでもぶち込んでやれば簡単に殺せます。

 

だけどエディは自分でカタを付けなければと思っている。責任感があり人が殺されることを見て見ぬふりなどできない善人だからです。

 

だからヴェノムはいうなれば、エディの善性に命を助けられています。そしてエディにはヴェノムの残虐性と暴力性が必要です。

 

エディの謝罪はなんとなくおざなりな印象がありました。そんな「ごめんなさい」でもヴェノムは受け入れ、そこに“手打ち”が完成したように見えました。

 

どんな形の謝罪であれ、自分の利害で少しでもプラスがあるなら受け入れる。理想的な喧嘩の終わらせ方だと思います。これがいい大人でもなかなかできません。

 

ちゃんと謝ったエディも偉いし、それを許したヴェノムも偉かったです。

 

 

一方で、カーネイジは宿主がそもそも破壊と殺戮を嗜好する連続殺人犯だったことから、破滅が決定づけられていたように思えました。

 

カーネイジとなったクレタスにもフランシスという恋人がいるにはいますが、それ以外に対して排他的過ぎました。

 

自分の内側にあるもの以外はすべて“餌”と捉えてしまう捕食者に、生き延びることは難しいようです。

 

 

 

 

さて、来年は『モービウス』です。

 

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

ペペロンチーノの正式名称がいつまでたっても覚えられない者です。

 

ペペロンチーノが「唐辛子」ってところは覚えてるんですが。

 

今回紹介するのはイタリアの小説です。

 

 

 

 

簡単なあらすじ

 

南イタリアの干拓地フォンタマーラ村は、多くの“どん百姓(カフォーネ)”が農業で細々と暮らしていたが、ムッソリーニのファシズム政権と結託した実業家たちの横暴によって土地と水資源を奪われてしまい、疲弊の一途をたどる。

 

罪人の息子で土地も持たないが腕っぷしは強く若者たちのリーダー的存在だったベラルド・ヴィオラは、婚約者エルヴィーラのために仕事を見つけ土地を得ようと都会へ旅立っていくが―――

 

 

ありふれた悲劇

 

本作は共産党から離れスイスに亡命していたシローネが、ダボスに亡命してきた古い知人家族から聞いた出来事を小説化したという“体”で書かれたフィクションです。

 

語り部は老人とその妻と息子の三人、それぞれの視点で、架空の村フォンタマーラと、この物語の実質的な主人公格であるベラルドに起きた悲劇が伝えられます。

 

しかし戦前のイタリアファシズム政権を告発する目的で書かれたこともあって内容は特に真に迫っているらしく、1930年代から今日まで長く読まれている大ベストセラーになりました。

 

俺はぜんぜん知らず、かろうじて次作の『パンと葡萄酒』を名前だけ知っている程度でしたが、ある日突然村の電気が止まったところから、あれよあれよという間に水が止まり土地が奪われ憲兵たちが法の名の下女たちを犯し村を破壊していく恐ろしいテンポの良さでスラスラと読めました。

 

ベラルドの顛末含め、あまりにも救われないラストへ猛然と突っ走って行くような小説なのですが、何やら妙で独特なユーモアもあり、ついつい笑ってしまうシーンも多かったです。

 

 

むしろ出来の良い喜劇か

 

「一番上には神様がおられる。天の主人だ。それはだれだって、知っとらぁ。

 その次は、トルロニア大公、地の主だろ。

 その後に、トルロニア大公の護衛官たちが来る。

 それから、トルロニア大公の護衛官たちの犬が来る。

 その次には、だれもおらん。

 その次も、だれもおらん。

 その次もだ。

 それから、どん百姓どもが来る

(P.43-44)

 

今作で幾度も使われるどん百姓(カフォーネ)の身分を端的に表したセリフです。

 

学が無く、知恵も無く、一方的に搾取・簒奪され破滅していく人々の渇いた諦めを感じます。

 

法も契約も手続きも、難しいことは何一つ分からないから、簡単に騙されてしまう。

 

小川の水を奪われ、弁護士に“説得”されるシーンを引用します。

 

「(前略)可能な妥協案はただ一つだけしかありません。首長には小川の水の四分の三を確保しなければなりませんから、その残りの四分の三をフォンタマーラの村人たちのものにする。そうすれば、どちらも四分の三で、半分よりはやや多いことになります。私のこの提案が首長にかなりの損失をもたらすことは承知しておりますが、そこは何とか、博愛家であり慈善家であるお方のお優しいお心におすがりしたいと思うのであります」(P.98)

 

何を言っているのか分かる村人は一人もいなかったけど、結局「金を払う必要が無い」というだけの理由で彼らは契約してしまう。

 

申し訳ないけど、笑いました。どこのトンチ話だと。

 

さらに名前もおかしなものが多く、訳者が知恵を絞ってくれています。

 

リンキオーヘン(臨機応変)弁護士は、引用したトンチ台詞を語った人物。

 

デモシカ(臆病で事なかれ主義)司祭は、最終盤でなかなかのクズになります。

 

レーノ・ショータイフメーノオトコ(例の正体不明の男)は、そのふざけきった名前に反して、ベラルドの物語にかなり深く入り込んできます。

 

 

作者はなかなか皮肉屋でこちらを苦笑いさせるユーモアの持ち主のようです。

 

『怒りの葡萄』にも似た社会の歪みに翻弄される人々を描いた小説です。

 

「これ笑っていいのかな」と悩みながら読んでみてください。