生きたいと思えないのに死ねずにいるすべての方へ~生きたいと思う必要はない、という話 | ライブハウスの最後尾より

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邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/


日曜は何となく朝カレー、夜刺身な者です。


決めているわけではありませんが、日曜に『親愛なる自殺志願者へ』を更新することは決めています。


※初めて読む方へ。


この『親愛なる自殺志願者へ』は大なり小なり希死念慮から逃れられない人々に向けて書いておりますので、死にたいと思ったことがない方は読まなくても大丈夫ですし、読まない方がいいかと思われます。

拙ブログのスタンスとしては、「死にたい」という言葉を「この苦痛や苦悩は死ぬことでしか解消できなさそうだ」というメッセージとして捉え、自殺をどうしようもなく行き詰った果てに取る選択肢の一つとして“全肯定”しています。

とはいえ、「それ以外にも楽になる方法があるのではないだろうか」と生きている限り考え続けてみようという趣旨の文章です。コメントを頂けると嬉しいカテゴリでもあります。よろしくお願い致します。




・急激すぎる変化、望まない適応が人を殺す


もう何度紹介したかというくらいですが、またご登場いただきます。


気味が悪い、君


彼(という慣れ慣れしい書き方で行かせてください)が亡くなって、もう三年になります。まるで電子の世界に立つ墓標のようです。いつまでも消えず、かといって消す人もいない。いや、消す方法がないのかもしれない。


彼の死因は、希死念慮に飲み込まれていったことは大前提として、やはりこの世界/社会に適応できなかったことにあると俺は考えています。


さて、では、この社会に“適応した”状態とはなんでしょうか。


もう灯台守や工場で流れる薬品を見つめ続けるような『誰とも関わり合いにならずに完結する仕事』は消滅したといって差し支えないと思います。


ライン工のような作業であっても、ある程度のコミュニケーションを取らなければならない。いわゆる正社員としての勤務であればなおさらではないか。俺の乏しい会社員経験を引っ張り出しても首肯できます。


心理学者の渡邊芳之さんによると例えば『大人の発達障害』と呼ばれるものはある種の特性を持った人々を排除する社会の仕組みが作られて、それらの人々が就職等で排除されるようになったことが先にあって、その結果として排除された人たちを医療や福祉の網にかける必要が生じたものであるそうです。


つまり、就労に至るための能力が高度になればなるほど、福祉の網にかけなければならない人も増えるという話で、対人関係における能力が低い人はなかなか“善き社会人”にはなれなくなってきている、と。



だから、と、彼は書き綴ります。


何とか自分を変えようとした。人を好きに感じられるように、温かいものを温かいと感じられるように、俺の感じ方を変えようとした。自ら人と関わって人を知って人の中で生きようとした。ブログ最終エントリーより引用)


それもまた、上手くいかず、真偽を確かめることはできませんが、彼は自殺しました。


もう一つ引用します。


でも、その先に感じたのは、「変わった」という事ではなく、「俺は一体誰なんだ」という思い。
俺の根底は変わらず、人が嫌いなまま、もう一つの自分が表面的に人と関わっている、そんな感じになってしまっていた。
(同記事により引用)


人は変わり行くものだし、変わり得るものです。


過ごす年月や環境によって予期しない変化が訪れる場合もあるし、逆に、自らの意志や努力で理想とする自分に変わっていける場合もあるでしょう。


しかし、何事も限度があります。


根本的に人間に対して不信感や嫌悪感を抱いているのに『人を好きになろう』としたり『人と関わって生きていけるように』したりしても、


また、“根本の自分”と、“表面の自分”の断絶の大きさに精神が耐えられなくなったのではないかと推察されます。


人は急には変われないし、向き不向きもあります。「頑張ってみたけど、どうしてもそんな人間にはなれない」というとき、どうすればいいのか、自分なりの考えを書いていきます。



・せめて、ちゃんと“自殺”できるように“精神的売春”をやめる



このカテゴリの文章で何度も書いていることですが、どんな自殺でも俺は決して否定しないし、する権利もないと思っています。


でもそれは、あくまで“自分で選んだ死”であることが大前提です。


つまり、誰かに「死ね」と言われたり、そう仕向けられたりしている死には迷惑を承知で待ったをかけます。


他者の言葉は呪いのように心を知らず知らずのうちに蝕んでいる場合もあるので、他人の干渉が一切ない純正の自殺があるのかは疑わしいですが、せめて、自分の気持ちの上だけでは「私は私の確固たる意志と尊厳に基づいて自殺を選択するのだ」と思えなくてはならないと思っています。


その話の延長として、俺は、やりたくないことのために自分を変えていくことはしなかった―――はずです。


たとえば、俺は小中高と碌に友達もいませんでしたが、それは誰も自分と友達になってくれなかったということもありつつ、俺自身が結構人を選んでいたところもあるのです。


学校というのは、同じ土地で同じ年に生まれただけの人間を寄せ集めてクラス分けして「さぁ、仲良くしろ」って、そんな横暴な言動がついつい許されてしまう場所です。


きっと先生たちにも悪気はないのでしょう。人は誰しも自分の経験を担保にしたアドバイスを送るものです。彼ら彼女らは学校で得難い友や師に出会えたのだと思います。おめでとう。しかし、他者にそれを押し付けてしまってはいけません。


俺にはできませんでした。さらにはいじめもあった。自分をいじめてくる人間と仲良くできるはずもないし、多少人間不信にも陥っていました。


他人、特に教師から見れば、人を冷徹に選別する、こまっしゃくれた困ったガキだったかもしれません。


確かにプライドは―――今でもそうですが―――とても高いと思います。大仰ないいかたをすれば、“尊厳”を傷つけられることを何よりも嫌っています。これは人からも言われますが、めちゃくちゃに頑固でもあります。


一度ならずいじめっ子相手に大暴れしてちょっとした学級会になって、おざなりの謝罪を言われたときも、決して受け入れませんでした。一生許さないつもりでしたが、今はもう連中の顔も名前もほとんど思い出せないので、許したということにしてあります。


仲良くしたくもない相手と仲良くするために自分の中身をこねくり回し、『自分みたいだけど自分じゃない“何か”』と化してしまうというのは、社会学者の内藤朝雄さんが『精神的売春』と呼ぶ行為そのものです。


bukimiotoko(『気味が悪い、君』のブログ主)さんは、それを“社会”に対してやってしまったのではないか、そう思えてなりません。


・死にたいという気持ちを大事に持っていることで死なずにいられる


自殺についていろいろと調べていくと、『死にたいという気持ちの奥底には生きたいという気持ちが含まれている』というような言説に出くわすのですが、個人的にはこれがよく分かりません。


生存本能や生存欲求という話であれば理解できます。が、どうもそうではない、自分の見解や宗教観では辿り着けない思考回路を経ているような居心地の悪さがあるのです。


とりあえず、「死にたい」という気持ちの発露は行間を読むまでもなく「死にたい」でしかないです。と、俺はそう確信しています。


なので、下手に「死にたい/生きていたくない」という気持ちを「生きたい」とポジティブ(に見えるよう)な方向に持っていくと『本当は希死念慮でいっぱいの自分』とのギャップにやられてしまうかもしれません。


逆にいえば、『死にたい自分』という基点から離れなければ、『生きたいと思いこもうとしている死にたい自分』が己を殺しにかかる最悪の事態も避けられるということです。


俺にはもう生存の欲求などほとんどありません。ただ、なんとなく命が今日までつながっているぼんやりとした意識があって、その道の途上に、いろいろと楽しい娯楽があるからそれを貪っている最中です。


終末時計一分前状態を長々と続けている現状ですが、苦はほとんどないです。だからきっと、生きていたいと思う気持ちなんていらないと思うんです。





死にたくたって構わない。座りこめ。俺たちが見つけに行く。Lyu:Lyuはこの国のすべての「死にたい」を背負おうとしている。だから信じられます。