2026.1/1 19:52~

 

 11日にブログを書く頻度が高すぎる。

 

 なんとなくそういうバイオリズムがあるのだろうな。

 

 完全に、誰に読ませるつもりもない形に落ち着いた今だからこそ出てきたデータという気もする。

 

 しかし私自身としては、こういうブログを読むのが好きだった。

 

 大抵はひきこもりで、無職で、死ぬついでにたまたま生きているといった様子のブログ主たちだった。

 

 今でもいくつかブックマークしているが、ひとつして更新されていない。はっきり「自殺します」と書いてぷっつり途切れた人もいる。

 

 まぁ、長続きする書き方ではないのだろう。

 

 カクヨムで、もう何のことやらよく分からん状態になっている『親愛なる自殺志願者たちへ』は、その手の散漫で自閉的な書き方ながら、もう六年以上続いている。ゴミのような情報でサーバーを圧迫するんじゃないと言われそうだが、テキストなど大した情報量ではなかろうよ。

 

 『カフカの生涯』というフランツ・カフカの評伝を読んだ。カフカも宮沢賢治も、生前にほとんど評価されなかった作家は、どうにもそのキャラクターが先行して消費されてしまうきらいがある。とはいえ面白いのだから仕方ない。

 

 カフカはそのほとんどが未完と断片に終わった小説と同等に、膨大な手紙が読者に親しまれている。親しまれてしまっている。手紙とは私信である。現代でいえば死後にLINEのやり取りを割られるようなものである。上品なことではない。しかし面白いのだな、困ったことに。

 

 その点でいうと『親愛なる自殺志願者へ』は現時点で40万字以上あるらしい。誰が読むのだ。しかし解析によると、誰かが読んでいるらしい。私の死後、カフカにとってのマックス・ブロートのような人物が祖父江直人を“発掘”するという未来があったしたら、研究者はこのやたらめったら長いだけの“手紙”を読まなければいけないのだ。今から少しずつでも推敲をしておくべきだろうか。

 

 今はもう、検索しても2020年以前の情報が出てこない。それ以外の方法で探せば出てくる。テキストは生きていても、検索は死んでいる。Webサイトも、いつまで持つか分かったものではない。

 

 やはり紙しかないか。

 

 50万弱の文章を吐き出すのに、コピー用紙はいくらいるだろうか。

 

 

 あまりにもすさまじくどうでもいいことで火の手が上がっている。

 

 まず冒頭の懸念が妄想であるし、末尾もこんな一事象で論ずるにはスケールが大きすぎるし、そんな徹頭徹尾ひとりで頭をぐるぐる回している呟きひとつに反応も付き過ぎである。

 

 火の気のない煙の火元は、往々にして我々の内側で燃え上がっている。

 

 ネットに、特に匿名かつテキストベースの空間を生きる人々の何かを強く刺激する出来事だったのだろう。

 

 それにしても、しょうもないことに変わりはない。

 

 どうやら大谷が投げてくれたボールらしいが、そんなに欲しいだろうか。

 

 受け取った瞬間はそれなりに良い気分にはなるだろうが、家に持ち帰るような気にはならないと思う。それこそ、近くの子供にあげてしまうか。

 

 上記のツイートでは、大人と子供の対比が書かれているが、人生を二十年以上やっておいて、そんなに物が欲しいと思えるだろうか。

 

 子供の頃であれば、それはもう、枯れ木の枝やセミの抜け殻だって宝物である。視界のすべてがおもちゃ箱で、目に映るすべてのものはメッセージだ。

 

 どうしてそんな風なのかというと、まさしく「ものを知らない」からだ。いるものといらないもの、欲しいものとそうでないものの峻別ができないので、なんでもかんでも欲しがる。

 

 その季節を超えれば、嵐のような物欲は治まる。治まらざるを得ない。なんとなれば、物は場所を取る。生活を圧迫し、その圧力の分、預金口座から数字が押し出されていく。我々はそうして、かつて愛したはずの物物を、少しだけ嫌いになる。執着は悪徳という都合のいい理屈を見繕い、頭の中でその感情を合理化をもするだろう。

 

 それ以上に、これまでの人生の物語が所有欲に蓋をする。

 

 大谷のボール。なるほど。WBCの会場で奇跡的に手にしたそれを家に持ち帰る。最初は意気揚々と眺めるだろう。家族や友人に自慢もする。神棚に飾ることもあるかもしれない。キャッチボールに使う? 失くしてしまったら大変だ。ドジャースの中継を観るときはそれを握りしめて観戦するくらいにしておこう。

 

 そうして、最初の数ヶ月や一年くらいは良い気分が続く。そしてその輝きは必ず摩耗する。いつか、ふと気付くと、そのサインボールでもなんでもないMLB硬式球は、家に数ある何の用途もないインテリアのひとつになっている。

 

 そうした物語を、我々はそれこそセミの抜け殻や通年特撮番組のおもちゃで経験している。経験していない人もいるだろう。色褪せる思い出を持てなかった悔恨が、やや破滅的とも見えるマニア熱に変換される人もいるかもしれない。しかし大体においては、物を持つことの高揚より煩わしさが勝るようになることに、我々はなっている。

 

 そういう不毛な物語を繰り返す予感がするので、私はそんなに物が欲しいとは思わないのだが、そうでもないのだろうか。

 

 物が欲しくない割りに、というのか、だからこそなのか、私個人は非常に物持ちがいい。およそ物心ついたときから使っているようなものが、未だに数点ある。壊れないのだから、仕方がない。

 

 繰り返しを繰り返すことへの恐れと共に、もう少し素朴に、物を大事にしたいから欲しくないのだという気持ちも、あるのかもしれない。

 

 

 

 話は変わって、WBCだ。

 

 ネットフリックスで野球中継を観るのが、なかなか快適である。なにしろ全試合ひとつのプラットフォームにまとまって、いつでも録画を観られるのだ。すべて通してみるなどという狂ったことはしていないが、ザッと観るのにちょうどいい。もしNPBの中継がこの形になったら、かなり観戦がはかどる。夢のようでもあるし、ある種の終わりの始まりのような気も、しないでもない。

 

 日本戦以外だと、やはり台湾対韓国が良かった。今日のイタリア対アメリカもいい試合だった。どうしても草刈り場的なチームがどのグループにもできてしまうのが心苦しいところだが、そういう野球後進国たちを観るのも、楽しい。

 

 野球は脈絡のないスポーツだ。凪のようなゼロ行進から、ふとした拍子に5点も6点も、そして9点(チェコ戦)も10点(台湾戦)も入るイニングがあり、そこには何の前兆もない場合が多い。かなり乱暴なスポーツだということもできるかもしれない。

 

 なので、実はけっこう、楽しむのに訓練がいるタイプのスポーツなのだろうか。

 

 あまりに突拍子もないことが起こり、どちらかといえば、そういうことが起こったチームが負ける。

 

 準々決勝は山本が先発するだろう。

 

 だからそういうことは起きそうもない。ので、日本が勝てるのではないか。

 

 おそらくバッテリーを組むのだろう若月は、割と突飛なことをやるタイプなので、それが良い方に転がることを祈ろう。

 一見すると無茶苦茶な意見にも、それなりの背景というか、ある種のトラウマがあるようだ。

 

 発端はこれで

 

 

 

精神が崩壊していても運転業務を止めなかった
止められなかった人がどうなったか
もうお忘れなんですね

 引用されている方のご意見がこちらだった

 

 

そうなんよね
最近はすぐ辞めたり、耐性ない人が増えて今後どうなることやら
今の時代通用しないという人もいるけど、今が正しくて旧式が悪いということもないので戻すべきものは戻さんといかんと思います

 

 応酬の発端は、いわゆるカスハラで運転を休止したバス運転手の是非のようだ。

 

 

 

迷惑かけられたのやら、正座させるか、運転席を囲んで動かせやてなるのが普通じゃないですか?
たかだか怒鳴られたくらいで何甘えとんねんてなるでしょ
プロの仕事は逃げたらいかん
どの業界でも一般の人や利害関係者がいるところは怒鳴り怒鳴られ当たり前なんだから

 

 ムチャな意見である。ぶたさん氏の居住地が福知山線沿線の尼崎ということもあり、この人自身もカスハラやパワハラの被害者側なのではないかという想像も働く。

 

 とはいえ、SNSや匿名掲示板など、社会やネットの主流や大勢に逆を張るひねくれ者の巣窟である。これもそうしたネタアカウントのひとつなのだろうと、最初は軽く考えていた。

 

 のだが。

 

 

 リプライで「死んでもいいのか」と問われた返事がこれである。

 

 なかなか気合の入ったアマノジャクではないかと、少し面白くなってくる。

 

 

いや、生きたいとは思わんな
楽に死ねる即死がええんだよ
阪神大震災で生き残り死んだ奴が羨ましかった
脱線事故も運悪くあの電車の先頭車に乗ってなかった
顔見知りでもない人の生死に全く興味がなく統計でしかない

 

 ここまでくると、ちょっと様子が変わってくる。というか、最初の論点がもう消え失せてしまっている。

 

 そして。

 

 

毎日勤務してしんどいだろ
仕事せんと食えんし
だから勝手に産んだ親に制裁したい

 

 事ここに至ると、罵倒半分・同情と心配半分といったリプライも増えてくる。

 

 上記した通り、ぶたさん氏にとってカスハラで職務を停止することは「自分だってそうしたいが、できない」ことを“簡単に”行う“裏切り”行為であるのだと想像できる。

 

 要するに、カスハラ被害者のボイコットに、自分を投影しているのだ。そしてその嫉妬と恨みは、いよいよ己の生誕の厄災にまでさかのぼる。

 

 カスハラという新語に対する反発や、それに伴う“過剰に”労働者が守られる社会への問題提起など、遥か彼方へすっ飛んでしまっている。というか、最初からぶたさん氏は自分の話しかしていない。

 

 こういうアカウントも、匿名空間には数多いる。世間の風潮に逆しか張らない連中よりも、よほど人間的だし、さらには深刻であると思う。当然、嫌いにはなれない。ある面では好ましいとすら感じる。

 

 ここからは完全な妄想だが、嫌なことに対し、はっきりと拒絶の意志を示しても状況が何も変わらなかったことがトラウマになってしまっているのだろう。

 

 なので、自分の自己イメージを「社会を円滑に運営すべく耐えがたきを耐える模範的労働者」に定め、そのイメージから逸脱する行動をとる人間を、こちらが引いてしまうくらいの熱量で激しく攻撃する。

 

『“軟弱な労働者”批判』が、『自分を過酷な現代社会に産んだ親への怒り』に直結してしまうような精神状態で日々働いているのは、たしかに苦行に耐える修験者といってもいいかもしれない。

 

 ただ、私は、そんな今にも壊れそうな状態の人間に何かしら社会に関わる労働をしてほしいとは思わない。とはいえ、朝9時という、日勤者であればだいたい始業の時間帯までせっせとレスバトルに興じているので、その心配は杞憂かもしれない。

 

 なにはともあれ、運転手という職業に携わる方々を恫喝するのは辞めていただきたい。彼ら彼女らがキレて、限界まで加速したそのステアリングや操縦桿を“クイッ”とやってしまったが最後である。

 

 私も、特に死ぬことについて思うことはないが、痛い思いはしたくない。それは、ぶたさん氏も同意してくれるのではないか。