おそらく自席で取ろうとした女性は叩かれて、後ろの席から移動してる子供が褒められる
— 山下 (@ahlnqvo6235) March 11, 2026
なんのためにチケット代を払ってんだろうな
子供だからってなんでも許される風潮になりすぎだと思うわ https://t.co/xV2Y6AjK6J
あまりにもすさまじくどうでもいいことで火の手が上がっている。
まず冒頭の懸念が妄想であるし、末尾もこんな一事象で論ずるにはスケールが大きすぎるし、そんな徹頭徹尾ひとりで頭をぐるぐる回している呟きひとつに反応も付き過ぎである。
火の気のない煙の火元は、往々にして我々の内側で燃え上がっている。
ネットに、特に匿名かつテキストベースの空間を生きる人々の何かを強く刺激する出来事だったのだろう。
それにしても、しょうもないことに変わりはない。
どうやら大谷が投げてくれたボールらしいが、そんなに欲しいだろうか。
受け取った瞬間はそれなりに良い気分にはなるだろうが、家に持ち帰るような気にはならないと思う。それこそ、近くの子供にあげてしまうか。
上記のツイートでは、大人と子供の対比が書かれているが、人生を二十年以上やっておいて、そんなに物が欲しいと思えるだろうか。
子供の頃であれば、それはもう、枯れ木の枝やセミの抜け殻だって宝物である。視界のすべてがおもちゃ箱で、目に映るすべてのものはメッセージだ。
どうしてそんな風なのかというと、まさしく「ものを知らない」からだ。いるものといらないもの、欲しいものとそうでないものの峻別ができないので、なんでもかんでも欲しがる。
その季節を超えれば、嵐のような物欲は治まる。治まらざるを得ない。なんとなれば、物は場所を取る。生活を圧迫し、その圧力の分、預金口座から数字が押し出されていく。我々はそうして、かつて愛したはずの物物を、少しだけ嫌いになる。執着は悪徳という都合のいい理屈を見繕い、頭の中でその感情を合理化をもするだろう。
それ以上に、これまでの人生の物語が所有欲に蓋をする。
大谷のボール。なるほど。WBCの会場で奇跡的に手にしたそれを家に持ち帰る。最初は意気揚々と眺めるだろう。家族や友人に自慢もする。神棚に飾ることもあるかもしれない。キャッチボールに使う? 失くしてしまったら大変だ。ドジャースの中継を観るときはそれを握りしめて観戦するくらいにしておこう。
そうして、最初の数ヶ月や一年くらいは良い気分が続く。そしてその輝きは必ず摩耗する。いつか、ふと気付くと、そのサインボールでもなんでもないMLB硬式球は、家に数ある何の用途もないインテリアのひとつになっている。
そうした物語を、我々はそれこそセミの抜け殻や通年特撮番組のおもちゃで経験している。経験していない人もいるだろう。色褪せる思い出を持てなかった悔恨が、やや破滅的とも見えるマニア熱に変換される人もいるかもしれない。しかし大体においては、物を持つことの高揚より煩わしさが勝るようになることに、我々はなっている。
そういう不毛な物語を繰り返す予感がするので、私はそんなに物が欲しいとは思わないのだが、そうでもないのだろうか。
物が欲しくない割りに、というのか、だからこそなのか、私個人は非常に物持ちがいい。およそ物心ついたときから使っているようなものが、未だに数点ある。壊れないのだから、仕方がない。
繰り返しを繰り返すことへの恐れと共に、もう少し素朴に、物を大事にしたいから欲しくないのだという気持ちも、あるのかもしれない。
話は変わって、WBCだ。
ネットフリックスで野球中継を観るのが、なかなか快適である。なにしろ全試合ひとつのプラットフォームにまとまって、いつでも録画を観られるのだ。すべて通してみるなどという狂ったことはしていないが、ザッと観るのにちょうどいい。もしNPBの中継がこの形になったら、かなり観戦がはかどる。夢のようでもあるし、ある種の終わりの始まりのような気も、しないでもない。
日本戦以外だと、やはり台湾対韓国が良かった。今日のイタリア対アメリカもいい試合だった。どうしても草刈り場的なチームがどのグループにもできてしまうのが心苦しいところだが、そういう野球後進国たちを観るのも、楽しい。
野球は脈絡のないスポーツだ。凪のようなゼロ行進から、ふとした拍子に5点も6点も、そして9点(チェコ戦)も10点(台湾戦)も入るイニングがあり、そこには何の前兆もない場合が多い。かなり乱暴なスポーツだということもできるかもしれない。
なので、実はけっこう、楽しむのに訓練がいるタイプのスポーツなのだろうか。
あまりに突拍子もないことが起こり、どちらかといえば、そういうことが起こったチームが負ける。
準々決勝は山本が先発するだろう。
だからそういうことは起きそうもない。ので、日本が勝てるのではないか。
おそらくバッテリーを組むのだろう若月は、割と突飛なことをやるタイプなので、それが良い方に転がることを祈ろう。