2026.1/1 19:52~

 

 

 あまりにもすさまじくどうでもいいことで火の手が上がっている。

 

 まず冒頭の懸念が妄想であるし、末尾もこんな一事象で論ずるにはスケールが大きすぎるし、そんな徹頭徹尾ひとりで頭をぐるぐる回している呟きひとつに反応も付き過ぎである。

 

 火の気のない煙の火元は、往々にして我々の内側で燃え上がっている。

 

 ネットに、特に匿名かつテキストベースの空間を生きる人々の何かを強く刺激する出来事だったのだろう。

 

 それにしても、しょうもないことに変わりはない。

 

 どうやら大谷が投げてくれたボールらしいが、そんなに欲しいだろうか。

 

 受け取った瞬間はそれなりに良い気分にはなるだろうが、家に持ち帰るような気にはならないと思う。それこそ、近くの子供にあげてしまうか。

 

 上記のツイートでは、大人と子供の対比が書かれているが、人生を二十年以上やっておいて、そんなに物が欲しいと思えるだろうか。

 

 子供の頃であれば、それはもう、枯れ木の枝やセミの抜け殻だって宝物である。視界のすべてがおもちゃ箱で、目に映るすべてのものはメッセージだ。

 

 どうしてそんな風なのかというと、まさしく「ものを知らない」からだ。いるものといらないもの、欲しいものとそうでないものの峻別ができないので、なんでもかんでも欲しがる。

 

 その季節を超えれば、嵐のような物欲は治まる。治まらざるを得ない。なんとなれば、物は場所を取る。生活を圧迫し、その圧力の分、預金口座から数字が押し出されていく。我々はそうして、かつて愛したはずの物物を、少しだけ嫌いになる。執着は悪徳という都合のいい理屈を見繕い、頭の中でその感情を合理化をもするだろう。

 

 それ以上に、これまでの人生の物語が所有欲に蓋をする。

 

 大谷のボール。なるほど。WBCの会場で奇跡的に手にしたそれを家に持ち帰る。最初は意気揚々と眺めるだろう。家族や友人に自慢もする。神棚に飾ることもあるかもしれない。キャッチボールに使う? 失くしてしまったら大変だ。ドジャースの中継を観るときはそれを握りしめて観戦するくらいにしておこう。

 

 そうして、最初の数ヶ月や一年くらいは良い気分が続く。そしてその輝きは必ず摩耗する。いつか、ふと気付くと、そのサインボールでもなんでもないMLB硬式球は、家に数ある何の用途もないインテリアのひとつになっている。

 

 そうした物語を、我々はそれこそセミの抜け殻や通年特撮番組のおもちゃで経験している。経験していない人もいるだろう。色褪せる思い出を持てなかった悔恨が、やや破滅的とも見えるマニア熱に変換される人もいるかもしれない。しかし大体においては、物を持つことの高揚より煩わしさが勝るようになることに、我々はなっている。

 

 そういう不毛な物語を繰り返す予感がするので、私はそんなに物が欲しいとは思わないのだが、そうでもないのだろうか。

 

 物が欲しくない割りに、というのか、だからこそなのか、私個人は非常に物持ちがいい。およそ物心ついたときから使っているようなものが、未だに数点ある。壊れないのだから、仕方がない。

 

 繰り返しを繰り返すことへの恐れと共に、もう少し素朴に、物を大事にしたいから欲しくないのだという気持ちも、あるのかもしれない。

 

 

 

 話は変わって、WBCだ。

 

 ネットフリックスで野球中継を観るのが、なかなか快適である。なにしろ全試合ひとつのプラットフォームにまとまって、いつでも録画を観られるのだ。すべて通してみるなどという狂ったことはしていないが、ザッと観るのにちょうどいい。もしNPBの中継がこの形になったら、かなり観戦がはかどる。夢のようでもあるし、ある種の終わりの始まりのような気も、しないでもない。

 

 日本戦以外だと、やはり台湾対韓国が良かった。今日のイタリア対アメリカもいい試合だった。どうしても草刈り場的なチームがどのグループにもできてしまうのが心苦しいところだが、そういう野球後進国たちを観るのも、楽しい。

 

 野球は脈絡のないスポーツだ。凪のようなゼロ行進から、ふとした拍子に5点も6点も、そして9点(チェコ戦)も10点(台湾戦)も入るイニングがあり、そこには何の前兆もない場合が多い。かなり乱暴なスポーツだということもできるかもしれない。

 

 なので、実はけっこう、楽しむのに訓練がいるタイプのスポーツなのだろうか。

 

 あまりに突拍子もないことが起こり、どちらかといえば、そういうことが起こったチームが負ける。

 

 準々決勝は山本が先発するだろう。

 

 だからそういうことは起きそうもない。ので、日本が勝てるのではないか。

 

 おそらくバッテリーを組むのだろう若月は、割と突飛なことをやるタイプなので、それが良い方に転がることを祈ろう。

 一見すると無茶苦茶な意見にも、それなりの背景というか、ある種のトラウマがあるようだ。

 

 発端はこれで

 

 

 

精神が崩壊していても運転業務を止めなかった
止められなかった人がどうなったか
もうお忘れなんですね

 引用されている方のご意見がこちらだった

 

 

そうなんよね
最近はすぐ辞めたり、耐性ない人が増えて今後どうなることやら
今の時代通用しないという人もいるけど、今が正しくて旧式が悪いということもないので戻すべきものは戻さんといかんと思います

 

 応酬の発端は、いわゆるカスハラで運転を休止したバス運転手の是非のようだ。

 

 

 

迷惑かけられたのやら、正座させるか、運転席を囲んで動かせやてなるのが普通じゃないですか?
たかだか怒鳴られたくらいで何甘えとんねんてなるでしょ
プロの仕事は逃げたらいかん
どの業界でも一般の人や利害関係者がいるところは怒鳴り怒鳴られ当たり前なんだから

 

 ムチャな意見である。ぶたさん氏の居住地が福知山線沿線の尼崎ということもあり、この人自身もカスハラやパワハラの被害者側なのではないかという想像も働く。

 

 とはいえ、SNSや匿名掲示板など、社会やネットの主流や大勢に逆を張るひねくれ者の巣窟である。これもそうしたネタアカウントのひとつなのだろうと、最初は軽く考えていた。

 

 のだが。

 

 

 リプライで「死んでもいいのか」と問われた返事がこれである。

 

 なかなか気合の入ったアマノジャクではないかと、少し面白くなってくる。

 

 

いや、生きたいとは思わんな
楽に死ねる即死がええんだよ
阪神大震災で生き残り死んだ奴が羨ましかった
脱線事故も運悪くあの電車の先頭車に乗ってなかった
顔見知りでもない人の生死に全く興味がなく統計でしかない

 

 ここまでくると、ちょっと様子が変わってくる。というか、最初の論点がもう消え失せてしまっている。

 

 そして。

 

 

毎日勤務してしんどいだろ
仕事せんと食えんし
だから勝手に産んだ親に制裁したい

 

 事ここに至ると、罵倒半分・同情と心配半分といったリプライも増えてくる。

 

 上記した通り、ぶたさん氏にとってカスハラで職務を停止することは「自分だってそうしたいが、できない」ことを“簡単に”行う“裏切り”行為であるのだと想像できる。

 

 要するに、カスハラ被害者のボイコットに、自分を投影しているのだ。そしてその嫉妬と恨みは、いよいよ己の生誕の厄災にまでさかのぼる。

 

 カスハラという新語に対する反発や、それに伴う“過剰に”労働者が守られる社会への問題提起など、遥か彼方へすっ飛んでしまっている。というか、最初からぶたさん氏は自分の話しかしていない。

 

 こういうアカウントも、匿名空間には数多いる。世間の風潮に逆しか張らない連中よりも、よほど人間的だし、さらには深刻であると思う。当然、嫌いにはなれない。ある面では好ましいとすら感じる。

 

 ここからは完全な妄想だが、嫌なことに対し、はっきりと拒絶の意志を示しても状況が何も変わらなかったことがトラウマになってしまっているのだろう。

 

 なので、自分の自己イメージを「社会を円滑に運営すべく耐えがたきを耐える模範的労働者」に定め、そのイメージから逸脱する行動をとる人間を、こちらが引いてしまうくらいの熱量で激しく攻撃する。

 

『“軟弱な労働者”批判』が、『自分を過酷な現代社会に産んだ親への怒り』に直結してしまうような精神状態で日々働いているのは、たしかに苦行に耐える修験者といってもいいかもしれない。

 

 ただ、私は、そんな今にも壊れそうな状態の人間に何かしら社会に関わる労働をしてほしいとは思わない。とはいえ、朝9時という、日勤者であればだいたい始業の時間帯までせっせとレスバトルに興じているので、その心配は杞憂かもしれない。

 

 なにはともあれ、運転手という職業に携わる方々を恫喝するのは辞めていただきたい。彼ら彼女らがキレて、限界まで加速したそのステアリングや操縦桿を“クイッ”とやってしまったが最後である。

 

 私も、特に死ぬことについて思うことはないが、痛い思いはしたくない。それは、ぶたさん氏も同意してくれるのではないか。

 

 

 ここ一時間ほど、かなり何もしていない。

 

 相変わらずよく映画を観ており、今日は真昼間から『羊たちの沈黙』を鑑賞していた。

 

 二度目だ。まだ二度しか観ていないのかと我ながら少し驚いた。大抵の古い名作の場合、TVで一回、レンタルのDVDで二回、そしてサブスクで三回目となることが多い。

 

 昨日の夜に観た『グリーン・マイル』もそういえば二度目だった。いずれも重めな映画だが、軽く観られる。『セブン』や『ブレードランナー』もそうだが、なぜか「観れちゃう」映画というのがある。逆に、内容のわりに、そう何度もは観たいとは思えない映画というのもある。違いは、まだよく分かっていない。自分の懐に“おさまる”感覚とでもいえばよいのか、上記作品には残虐な描写も多いが、鑑賞中の私はある種の「心地よさ」を感じているのである。そういうものがある作品と、ない作品があるのだ。

 

 また、これはお恥ずかしい話になるのだが、小説であれ映画であれ、また漫画でもアニメでもそうだが、私は一回観た・読んだだけでは内容を把握できない。

 

 一回こっきりのそれは、ただ下水管を勢いよく流れていった水がごときで、何が起きたかも、あらすじも判然とせず、どこに溜まることもない。二回目でよくやく「これはこういうことか」と何やら分かったような気になり、三度目でようやく腹に落ちていくといったありさまなのだ。

 

『羊たちの沈黙』に関しても、ラストシーンで脱獄したハンニバル・レクターが、どこぞの外国を歩いていることはかろうじて覚えていたが、それが自分を拘束していた精神病棟の院長を殺害するためだったことや、彼がそもそもどうやって牢屋から逃げおおせたのかといったことについては、なにひとつ覚えられていなかった。

 

 だから私は、世の書評家や映画評論家などといった方たちには最大限の敬意を持っている。あの方々は、たいていの場合、一回勝負で評論せねばならない。何度も同じ作品を鑑賞する時間的な余裕などないだろうし、それでなくとも現代的な“書く仕事”というのはスピード勝負だ。それでいて作品の芯を捉えたコラムに仕上げなければならないのである。

 

 私も、かつては評論のまねごとのごときをブログでやっていたが、もうやるまい。というか、できていないのだから、そもそもやれない。

 

 なぜこんなことをしていたのだろうかといえば、ヒトのまねごとをしていたのである。

 

 レクターの分析によると、バッファロー・ビルは性的倒錯者ではなく、過去に負った心的外傷のトラウマからそういう人間を模倣しているだけなのだという。己を倒錯者であると思い込むことで、ある種の防衛機制を作り上げ、それがゆえに狂ったシリアルキラーにならざるを得なかった。どこまでも模倣犯でしかないが、だからこそ行くところまで行ってしまったという、そこはかとない悲哀を感じさせる。

 

 私は、適応的な人を模倣し続けた。そして最近、それを辞めだしている。この先には、きっと何もないのだろうなと思う。

 

 だからここ一時間、私は、途方に暮れるでもなく、なにもしていないのである。