2026.1/1 19:52~

 ふと脳が発火したことについて。

 

 踏み絵という制度で試されているのはどちらか。

 

 ただの絵ごときを踏む踏まないで殺される人々か。

 

 それとも、ただの絵ごときを踏まなかった人々を殺さなくてはならない者たちの方か。

 

 殺しに逡巡していることを悟られれば、踏み絵の立場は逆転するだろう。「奴らはどうせ殺せない」と知れば、徒党を組んで反逆される。

 

 覚悟を問われているのはお互い様なのではないか、と脈絡もなくふと思ったのであった。

 

 ヒトはなかなかヒトを殺したがらない性質を持つとは思うのだ。私も嫌である。仕事でも御免こうむる。なぜなら私は仕事が嫌いだから。

 

 仕事だと思えばいくらでもやってしまえる人間はいるだろうが、理由さえ貰えればできるという類の人間を多数雇っている者も、なかなか心理的な負担が強いように思われる。

 

 そもそも、なぜ殺さねばならなかったのか、という部分に立ち返りたくなるが、そうやって仕事に迷いを見せると、これまた舐められるのであろうな。

 

 殺す必要のある人間などいない。我々は放っておけば死ぬようにできている。だから産まれた理由も、生きる意味も、死ぬ価値もない。当然殺すような価値もない。すべては無意味だ。

 

 昨年『A』というオウム真理教とそのサリン事件を扱った一連のドキュメンタリー作品を見倒したのだが、ああまでしゃかりきになって麻原を死刑にすることもなかったのではないかと思った。

 

 なんというか「殺すべき理由があって処す」というより「ここで殺しておかねばもっとひどいことが起こる」とでもいうような、一種の強迫観念に突き動かされているような感もあって、その予断は恐らく、間違いない。

 

 直近でいえば青葉が死刑判決を受けたことにも同じ感想を持った。

 

 ある一定の事件が起こると、きまって司法と世論がパラノイアに陥る。

 

 命の価値、というそれ自体が妄想の産物について突発的に延々と考え始め、議論は当然ながら錯綜を続け、最終的に「こいつを殺せばひと段落つく」という理解しがたい結論が導かれる。

 

 淡々と書いていると思われるだろうが、友よ、そのたびに私は「あのパラノイアどもに次に殺されるのは私かもしれない」と、けっこうビビッているのだ。

 

 他者を殺す者も理解できなければ、それを殺す連中のことも同程度に理解しがたいのだ。

 

 なにをどう勘違いすれば、自分を含めて人の命に価値があるなどと思えるのだろう。

 

 とはいえ、そう思いたいのであろう。よろしい。つい最近にも幼児が実の親に殺される事件があったが、その子の命にも“価値”なるものがあったと思うのであればそう思っておればよい。私は知らん。

 

 価値があると思わねばヒトがヒトを愛することができないと、そう思っているのかもしれないが、私は儀礼があればそれで十分だと思う。

 

 今日は銭湯でのぼせて倒れた客をひとり介抱したのだが、これは特別なことであろうか。違うだろう。

 

 そのまま捨て置くのは忍びないとか、死ぬままにしておくのは可哀そうとか、そういう最低限の儀礼だ。風呂場から数人がかりで大の男をひとり担ぎ出すのに、それ以外にどんな理由がいるだろう。

 

 別に放っておいても構わないが、それではなんとなく寝覚めが悪い気持ちにはなるだろう。その気持ちにただ従えばいいのである。愛だの価値だの、そんな話が必要になるとは思えない。

 

 わざわざ殺さなくともよい。ほったらかしにしておけば死ぬのである。

 

 私もそうやって死んでいくのだ。だから殺さないでくれ。と、この懇願はなかなかパラノイア的ではある。

 雪が降っている。

 

 地元では今年初めての積雪だが、そう大したこともなく、どうやら今冬は穏やかに過ぎてゆくものらしい。

 

 雪が降る前に銀行に出向き、米を買いに行き、陽が出ているうちに洗濯も済ませ、明日の巣ごもりの準備までしたが、そんな必要はなさそうだったようである。なんとも生真面目なことである。ちょっとした冬の嵐にあてられたか。

 

 米は10㎏あり、預金通帳には二、三ヶ月は無収入でも暮らしていけそうな数字が残っていた。三月には春の兆しも見えることだろう。

 

 眠る理由がない。

 

 何を言っているのか分からないと思われそうだが、さまざまな部分でこの“理由がない”痛痒に耐えられなくなりつつある。

 

 先々のことを思うに比例して虚しさも膨れ上がっていく。

 

 というようなことを思うこともまた無意味であるので、結局なにひとつ実にはならないのだな。

 

 ただ確実に愛想は尽きつつある。

 

 目減りの勢いでいえば月々の預金残高を超えている。なにしろ後者はいくばくかでも入金がある。前者はもはやインプットの手段さえ喪失していて、あとはこの身体に残った分でなんとかやりくりするしかないといった様相を呈している。

 

 さまざまなことについて、適応的な顔をするのが難しくなっている。

 

 いや、難しくなっていることにしたいのか。

 

 当然私は適応などしたくはない。

 

 したくはないが、渡世の仁義というやつでそうすべきではないかと感ずるからそうしている。

 

 適応したくなければ何をしたいのか。

 

 何もしたくない。

 

 何をしても無意味であるから、無意味であると芯から理解しているから、もはや何をするということもしたくない。

 

 それが達成されるなら、必要最低限の文明の利器のみを携えて残りはすべて捨ててしまおうと思う。

 

 思えばずいぶんと贅肉をつけてしまったと思う。そのほとんどが貰い物だ。今これを打ち込んでいるパソコンからしてそうだし、自動車も知り合いの車屋から格安で譲ってもらったものだし、TVもエアコンも自分で買い求めたものではない。自分で購ったものは、今ひざ掛けのように使っている電気毛布と、折り畳み自転車と、30円くらいで買ったスマートフォン。

 

 なにがどうしてそんなに物をもらえてしまったのか、自分でもよく分からない。しかしこういう器物たちをもって、どうやら私はそれなりに社会に適応した風を装えるのだと、そういう一種の成功体験を持ったことは確かである。

 

 だからもう、辞めてしまってもいいのである。

 

 やろうと思って、実際にできた。だから、もういい。そういうことだ。

 

 なぜ、もういいのか、と恐らく人は問うだろう。

 

 それがつまり、私という人間が人間のようなふりをしただけのなにかである証左なのだと思う。

 

 雪が止んでいる。

 どこぞで全裸になって逮捕された者がいるようだ。

 

 当然なことと流してしまいそうになるが、よく考えてみると、逮捕する必要はないのではないか。

 

 自ら無防備な状態になってくれたのだからして。

 

 もう少し想像を働かせれば、尻(ひいては直腸)に凶器を仕込んでいたり、爆弾を飲み込んでいたりといった場合を想定できないでもない。だが、恐らくだが警備員や警察もそこまで考えて逮捕に踏み切ってはいないと思う。

 

 とにかく、広い意味で右に倣わない突発的かつ不規則な行動をとった者を自動思考的にしょっ引いているだと、私は思う。

 

 そういう行動に罪という理屈が後付けされる。これは行為者だけでなく、行為者に反応する我々の行動も含まれる。認めがたいことだが、すべての罪にはある種の共犯関係が存在する。

 

 ヒトの群れにおける変わり者、はぐれ者、のけ者はそのようにして排除される。山猿の営為となんら変わるところはない。

 

 だから、私は擬態を辞められなかった。今も完全には辞めていない。しみついてしまったのだ。シャツに付いた墨汚れのように。とれることはない。

 

 なので、ときどき私は自分が何をしているのか分からなくなる。厳密にいえば、その行為者が果たして“自分”であるのかが、ひどく疑わしく思えてくる。無論それは私で、何をどう言い繕おうとも往来で衣服を脱ぎ捨てた私は、私の肉体を間違いなく晒しているのである。

 

 が、それに納得できなくなる瞬間というのが、増えてきたという話だ。

 

 自我が分裂した者は、これを逮捕する。などという法が制定されていないことを喜ぶべきか、あるいはこの歳までそのような者がのうのうと天下を闊歩できていることに危機感を覚えるべきか。だが、裁かれようにも自首すべき場所も見つからないのだ。

 

 再開して三つ目の記事で書くことでもないが、思いついた端から適当に書き込んでいるのでご容赦いただくとして、当ブログの文章は、このような私の反吐である。

 

 酔っ払いが食道を逆流する吐き気を我慢できんように、私は私の完全に壊れてしまった部分というのを何らかの形とせずにはいられないのである。

 

 読む価値もない。読まれる気もない。そういう類のものであるので、どうかご承知おきを。