ふと脳が発火したことについて。
踏み絵という制度で試されているのはどちらか。
ただの絵ごときを踏む踏まないで殺される人々か。
それとも、ただの絵ごときを踏まなかった人々を殺さなくてはならない者たちの方か。
殺しに逡巡していることを悟られれば、踏み絵の立場は逆転するだろう。「奴らはどうせ殺せない」と知れば、徒党を組んで反逆される。
覚悟を問われているのはお互い様なのではないか、と脈絡もなくふと思ったのであった。
ヒトはなかなかヒトを殺したがらない性質を持つとは思うのだ。私も嫌である。仕事でも御免こうむる。なぜなら私は仕事が嫌いだから。
仕事だと思えばいくらでもやってしまえる人間はいるだろうが、理由さえ貰えればできるという類の人間を多数雇っている者も、なかなか心理的な負担が強いように思われる。
そもそも、なぜ殺さねばならなかったのか、という部分に立ち返りたくなるが、そうやって仕事に迷いを見せると、これまた舐められるのであろうな。
殺す必要のある人間などいない。我々は放っておけば死ぬようにできている。だから産まれた理由も、生きる意味も、死ぬ価値もない。当然殺すような価値もない。すべては無意味だ。
昨年『A』というオウム真理教とそのサリン事件を扱った一連のドキュメンタリー作品を見倒したのだが、ああまでしゃかりきになって麻原を死刑にすることもなかったのではないかと思った。
なんというか「殺すべき理由があって処す」というより「ここで殺しておかねばもっとひどいことが起こる」とでもいうような、一種の強迫観念に突き動かされているような感もあって、その予断は恐らく、間違いない。
直近でいえば青葉が死刑判決を受けたことにも同じ感想を持った。
ある一定の事件が起こると、きまって司法と世論がパラノイアに陥る。
命の価値、というそれ自体が妄想の産物について突発的に延々と考え始め、議論は当然ながら錯綜を続け、最終的に「こいつを殺せばひと段落つく」という理解しがたい結論が導かれる。
淡々と書いていると思われるだろうが、友よ、そのたびに私は「あのパラノイアどもに次に殺されるのは私かもしれない」と、けっこうビビッているのだ。
他者を殺す者も理解できなければ、それを殺す連中のことも同程度に理解しがたいのだ。
なにをどう勘違いすれば、自分を含めて人の命に価値があるなどと思えるのだろう。
とはいえ、そう思いたいのであろう。よろしい。つい最近にも幼児が実の親に殺される事件があったが、その子の命にも“価値”なるものがあったと思うのであればそう思っておればよい。私は知らん。
価値があると思わねばヒトがヒトを愛することができないと、そう思っているのかもしれないが、私は儀礼があればそれで十分だと思う。
今日は銭湯でのぼせて倒れた客をひとり介抱したのだが、これは特別なことであろうか。違うだろう。
そのまま捨て置くのは忍びないとか、死ぬままにしておくのは可哀そうとか、そういう最低限の儀礼だ。風呂場から数人がかりで大の男をひとり担ぎ出すのに、それ以外にどんな理由がいるだろう。
別に放っておいても構わないが、それではなんとなく寝覚めが悪い気持ちにはなるだろう。その気持ちにただ従えばいいのである。愛だの価値だの、そんな話が必要になるとは思えない。
わざわざ殺さなくともよい。ほったらかしにしておけば死ぬのである。
私もそうやって死んでいくのだ。だから殺さないでくれ。と、この懇願はなかなかパラノイア的ではある。