何もできない。何も得られない。なのに美しい。~デューン 砂の惑星PART2/Dune | ライブハウスの最後尾より

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どうも( ^_^)/

 

いつでもしれっと帰ってくる者です。

 

 

『DUNE砂の惑星』パート2を観てきました。

特上のSFであり貴種流離譚であり青春譚でありなにより悲しき復讐譚であるのでハッピーエンドはありえない、なのに妙なほどにとても美しくて「パート3おかわり!」って気にさせてくれます。

 

ポールは決して自分を救世主などとは言わない。

 

でもスティルガーはじめ原理主義者たちはポールが何を言おうが「それこそ救世主だ」とまっすぐに曲解してくるし、それ以外の人間は母親ジェシカも含めて救世主とその言い伝えを利用しようとするばかり、誰一人ポールの意志を尊重しようなどとはしない。

 

これは貴き血を持った白い肌のポール王子が虐げられた部族フレメンを率いて救うような物語ではないのですね。

 

Part1で姿の見えなかった皇帝は半ば耄碌した弱々しい老人で、それを影で操っているつもりのベネ・ゲゼリットは思想に頭をやられておかしくなったカルト教団にしか見えず、逆にあれだけ憎々しかったハルコンネンたちが深謀遠慮に長けた武人めいて見えてきてなぜか評価が相対的に上がってしまう事態に陥りました。

 

そうではない見方もあるかもしれません。多様な見え方が許される作品でもあります。

 

また評価が上がったといえば忘れてならないのが砂漠と砂虫だと思います。

 

水はなく乾燥しておまけに少しでも足音を立てればサンドワームが捕食しに来る砂漠は地獄のように見えていたのに、そのすべてを飲み込む雄大な威容に爽やかさを感じざるを得ない。それだけ、映画の中で人間どものやってることが本当にどうしようもなく苛立たしかったということなのですが。

 

どうか砂漠よ災いと幸いあれ。

 

すべてを奪い、飲み込み、さらってくれと願わずにいられない。

 

シャイー=フルード。

 

とてつもない迫力にヒトは畏怖しときに崇拝の念を抱く、というのはポールも同じだったようです。

 

恋人チャニと出会ったから、という以上に砂漠の民フレメンの生き方に共感し尊敬し本意として彼らの仲間になりたいと願う。

 

強さを見せつけ優麗な砂歩きを会得し砂虫を乗りこなしフレメンの名をもらう。

 

でも本当の意味で彼らと同じには、決してなれません。

 

だからこの映画はつらく悲しいのです。

 

ポールは救世主という名の道具として使い潰され、映画が終わった後もなおキリキリ働かせられる、なんですかこれは皇帝に労基法は適用されないとしたってちょっとブラックすぎやしませんか。

 

そうなることが運命づけられていた通りに動いた。

未来がどうなるかも分かっている。

しかし間違いなく戦った。

 

これはドゥニ・ヴィルヌーブ監督の性癖なのか選ぶ原作がすべてそうなっているのか分かりませんが『メッセージ』『ブレードランナー2049』にも共通しているテーマがあるように感じます。

 

誰も望んだものは得られない。生まれてしまえばあとは死ぬ以外に結末のない人間に、選ぶ権利などない。

 

まったく反論のしようがない事実です。

 

その冷たい事実を物語にしてしまえるのがこの監督の作家性であり強みなのだなと思います。

 

劇中の時間は一年と経っていない、レディ・ジェシカが妊娠してまだ出産していない程度の期間の物語ですが、いい感じに一作目と二作目の間が空いて、ティモシー・シャラメの顔が少年から男に変わりましたね。

 

ハンス・ジマーは相変わらず音楽上の暴力的な自由を謳歌している素晴らしい仕事ぶりです。低音が劇場の椅子を揺らし、そこからサンドワームが現れるというのは、もはや発明であると思います。2Dなのに気分は4DXです。

 

監督はこれからいくつも新作を発表したいでしょうし、いくら好きでもDUNEシリーズを全部映画化するのは難しいとは思います。が、さっきも書いたようにPart3くらいまではどうかやってほしいと思います。