歌仙「灰汁桶の」の巻 6
初折の表(序破急の序:導入部・事なくすらすらと)
1)灰汁桶の雫やみけりきり/〟\す 凡兆(秋)(発句)
2) あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉(秋)(脇)
3)新畳敷ならしたる月かげに 野水(秋)(第三)(月の定座)
4) ならべて嬉し十のさかづき 去来(雑)
5)千代経べき物を様/〟\子日して 蕉(春)(通常の月の定座)
6) 鶯の音にたびら雪降る 兆(春)
(発句)灰汁桶の雫やみけりきり/〟\す 凡兆
(脇 ) あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
(第三)新畳敷ならしたる月かげに 野水
野水(やすい)の第三が付きました。
芭蕉の脇「あぶらかすりて宵寝する秋」を共有して、
(発句)灰汁桶の雫やみけりきり/〟\す 凡兆
(脇 ) あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
と、
(第三)新畳敷ならしたる月かげに 野水
(脇 ) あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
という(形式でいうと)二首の短歌が、出現しているわけです。
それぞれの描き出す世界、その展開、お解かりいただけたでしょうか。
この三句における展開は、脇を付けた芭蕉の立場に立ってみるとよく解りますよね。
芭蕉は凡兆の「灰汁桶の雫やみけりきり/〟\す」に「あぶらかすりて宵寝する秋」と付けて、そこにひとつの詩の世界が生まれました。
が、それも束の間、野水は「灰汁桶の雫やみけりきり/〟\す/あぶらかすりて宵寝する秋」の「あぶらかすりて宵寝する秋」を取り込んで「新畳敷ならしたる月かげに/あぶらかすりて宵寝する秋」と第三「「新畳敷ならしたる月かげに」を付けたわけです。
芭蕉の立場からすると「灰汁桶の雫やみけりきり/〟\す/あぶらかすりて宵寝する秋」の世界を「新畳敷ならしたる月かげに/あぶらかすりて宵寝する秋」の世界へ変えられた、ということになります。
発句を取り込んで自分の描き出した世界が、他者の介入によって別の世界へと変化してしまったわけですね。
たとえて云えば、自分の描き上げた一枚の絵画が、目の前で別の絵画に変身してしまった。
この驚き。
近代的な芸術観「自己の表現」とは、まったく次元が異なりますよね、これ。
誰の意志にもよらず、かといって意志がない、というのでもなく、意志を持った他者同士の出会いによって、おのずから生成するようなもの‥。
そういうものが、ここには、現れている。
この驚異。
おっと、また話が脱線しかかってますね。戻しましょう。
初折の表、四句目です。
ならべて嬉し十のさかづき 去来
│ならべてうれし│とおのさかずき│
季はありません。雑の句です。
一見「嬉し」で切れているように見えますが、ここに切れはありません。
音数の関係もありますが、「嬉しき」とあるべきところを「嬉し」として全体に響かせているのですね。
前句と合わせて意訳すると、
新しい畳を敷き並べた平らな平面に月光が降り注いでいる、その中に。
十個の盃を並べて、嬉しいものだなぁ。
でしょうか。
つまり、
新畳敷ならしたる月かげに 野水
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
から、
新畳敷ならしたる月かげに 野水
ならべて嬉し十のさかづき 去来
という展開。
これは、「さかづき」ですから端的に酒宴ということでしょうね。
去来は「新畳」に喜び事の気配を読み取って「十のさかづき」を出してきた。
この局面は多く「新築祝い」であるというふうに解釈されてきました。
もちろんそれでいいのですが、ただし「十のさかづき」ですから、その規模に注目すべきでしょうね。
ごく親しい身内だけの祝い事だったのでしょうね。月光と新畳の芳香の中のつつましい酒宴。歌舞音曲もなく、静かに杯を傾け語り合うだけの。
新畳敷ならしたる月かげに 野水
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
月かげの差す心地よい秋、畳も新しく敷き替えたことだし、行灯の油の燃え尽きるままに宵寝でもしようか。そのように描いたはずの野水。それは、
新畳敷ならしたる月かげに 野水
ならべて嬉し十のさかづき 去来
と、去来によって、親しい人だけが集う打ち解けた酒宴の席に早変わりしてしまいました。
どこか孤独を匂わせた世界は、「十のさかづき」つまり複数の者たちの交流の場へと転換してしまいました。