歌仙「灰汁桶の」の巻 13
初折の裏(序破急の破:展開部・変化に富ませ)
1)乗出して肱に余る春の駒 来(春)
2) 摩耶が高根に雲のかゝれる 水(雑)
3)ゆふめしにかますご喰へば風薫 兆(夏)
4) 蛭の口処をかきて気味よき 蕉(夏)
5)ものおもひけふは忘れて休む日に 水(雑・恋)
6) 迎せはしき殿よりのふみ 来(雑・恋)
7)金鍔と人によばるゝ身のやすさ 蕉(雑)
8) あつ風呂ずきの宵/\の月 兆(秋)(月の句)
9)町内の秋も更行明やしき 来(秋)
10) 何を見るにも露ばかりなり 水(秋)
11)花とちる身は西念が衣着て 蕉(春)(花の句)
12) 木曾の酢茎に春もくれつゝ 兆(春)
初折の裏十一句目です。
花とちる身は西念が衣着て 芭蕉
│はなとちる○○│みはさいねんが│ころもきて○○│
季節は「花」で春。花の定座です。
さいねん【西念】
ありふれた凡僧を呼ぶ通名。西念坊。猿蓑「花とちる身は―が衣着て」(芭蕉)
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
「西念」は「西方浄土を念ずる」僧という意味でしょうね。特別じゃない、ごくごく普通の僧侶。
一句の調べ(音韻の響き)や脈絡からすると、寺院に所属せずひとり修行している隠遁の僧、つまり「聖(ひりじり)」なんでしょう。まあ、芭蕉ですから、西行が念頭にあったかもしれませんね。
前句と合わせて、
11)花とちる身は西念が衣着て 蕉
10) 何を見るにも露ばかりなり 水
意訳すると、
まるで花のように散ってしまう、はかないわが身は、ありふれた凡僧の着る衣を着て、
何を見るにつけても、涙を流すばかりである。
でしょうか。
芭蕉は、前句「何を見るにも露ばかりなり」に無常の響きを聞きつけて「花とちる身」と付けたのでしょう。さらにその身は「西念」つまり、どこにでもいる凡僧、旅する隠遁の修行僧が着るような、粗末な法衣を身に着けている‥。これはどう考えても、芭蕉の境涯だよね。
野水の「何を見るにも露ばかりなり」に、「わが意を得たり」とばかり、みずからの境涯を描いてみせたのでしょう。
花とちる身は西念が衣着て
何を見るにも露ばかりなり
でしょう?
松尾芭蕉『笈の小文』の冒頭あたりを引いておきます。
かれ狂句を好(このむ)こと久し。終(つい)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立(たて)む事をねがへども、これが為にさへられ、暫(しばらく)学(まなん)で愚を暁(さとらん)事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只(ただ)此一筋に繋(つなが)る。
一所不住、旅(俳諧)に生き旅(俳諧)に没した芭蕉の境涯。
9)町内の秋も更行明やしき 来
10) 何を見るにも露ばかりなり 水
から、
11)花とちる身は西念が衣着て 蕉
10) 何を見るにも露ばかりなり 水
への展開です。
更け行く秋の町、住む人もない屋敷、栄枯盛衰に涙したはずの野水でしたが、それがまあ、師の境涯へと変転してしまいました。
まさかこのような展開になろうとは‥。
初折の裏十二句目、初折の裏最後の句です。折の端であることから、ここを折端(おりはし)と云います。
木曾の酢茎に春もくれつゝ 凡兆
│きそのすぐきに│はるもくれつつ│
季節は「春」で春です。
す‐ぐき【酸茎】
蕪菁(かぶら)の一種である酢茎菜(すぐきな)の酸味ある漬物。初冬に漬け込む。京都市上賀茂・北白川・一乗寺辺の特産。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
「酸茎」は、木曾御岳の名産でもあったようで、冬末から暮春までに食べるものだったそうです。
前句と合わせて、
11)花とちる身は西念が衣着て 蕉
12) 木曾の酢茎に春もくれつゝ 兆
意訳すると、
まるで花のように散ってしまう、はかないわが身は、ありふれた凡僧の着る衣を着て、
木曾の酢茎の暮春の味わいに、春も終わろうとしている。
でしょうか。
凡兆はもちろん、前句に師の面影を読み取って、木曽路の暮春の味「酢茎」を出したのでしょう。
おもひ立木曾や四月のさくら狩 芭蕉
│おもいたつ○○│きそやしがつの│さくらがり○○│
木曾は、芭蕉が貞享二年(1685)に訪れたゆかりの地、でもあるんですね。
11)花とちる身は西念が衣着て 蕉
10) 何を見るにも露ばかりなり 水
から、
11)花とちる身は西念が衣着て 蕉
12) 木曾の酢茎に春もくれつゝ 兆
への展開ですね。
これは驚きというより嬉しかったんじゃないかな、芭蕉は。
野水の句を取り込み、おのれの境涯を描いて見せたところ、凡兆は師の足跡を髣髴とさせる木曽路を、しかもあからさまな旅の様子を詠むのではなく「酢茎」という特産品、味覚でそれを描いてみせた‥。
芭蕉の「わが意を得たり」は、この付け句にも云えそうです。