パルナシアンのぶつくさ | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

  なにしろ暇だから俳句でもひねってみようかと思い立った。
 何より先に俳句ってなんだろうという疑問がまたぞろ湧いてきた。

 句をひねるときはみんな同じ貌になる。
 見えない宗匠頭巾をかぶっている。
 五・七・五 の字塊。これどうじゃ、と句が嘯いている。

 おしなべて世相は俳句の隆昌を示している。
 投句欄では、餌を求める雛のように生えそろわない羽根をばたつかせいっせいに投稿句が首を伸ばして選にいれてと叫んでいる。季(黄)色い口を広げるだけひろげて。
 商業ベースに乗せられた才能のはけ口ほどみっともないものはない。

 俳句には通俗俳句と高踏俳句があるようだ。
 絵画でいえば観客・批評家におもねった通俗画家と大向こうのウケを狙うことなく己が道をひとりゆく画家の作品のちがいといおうか。

 社長室にはたいてい絵画が架けられている。逸品が置いてある。絵や置物はそのひとの見識を語っている。デパートの8階で適当に見つくろった絵なのか、とある画廊で共振するものがあって贖ったものなのか。招き猫か石紋のみごとな端渓硯か。
 ――通俗か高踏かの例はいくらでもあるだろう。
 投稿俳句にはその目的から言って高踏俳句は無い。その証拠に選者が五人いれば五人が全く別々の句を「今月の秀句」として選び、ほかの選者の選んだ句を「佳句」にも及ばない駄句とする例がほとんどすべてであることが挙げられよう。この商業現象は不思議だ。

 こころに残る、こころを打つ句は選にかけるものでないのだろうし、そもそも俳句にそのような世界観を載せるスペースがあるはずがない。


 「五・七・五」は絵画のいわばサムホールだ。
 たかが知れている。
 全宇宙をこれで表現しようという誇大妄想狂の「場」はサムホールには無い。ところが俳句製作者にはこういう気負った夜郎自大がいるのだ。
 けだし「俳句」がメタ絵画を扱う「文」芸の範疇にあると誤解しているせいだろう。文芸は文芸だ。絵画は絵画だ。それぞれの存在理由をもっている。

 造形であれ文芸であれ制作物には制作者の感性と知性が集約されている。感性は美学として知性は技能として作品を構成する。この両翼がそろってはじめて「芸術作品」としての飛翔が許されるのだ。

 技術には優劣があっても芸術に優劣は無い。あるのは好きか嫌いかだけだ。おもしろいかくだらないかだけだ。
すごいかありきたりかは技術の分野であって芸術の分野ではない。

 オレは俳句をひとつひねろうとしていたのだった。
 無精ひげを掻いているうちに脇道に入ってしまった。道の垣に、ここに糞をさせないでください、と書いてある。ペットの落し物は必ずおもちかえりくださいとも書いてある。
 オレの「俳句」のことを言っているらしい。

   佇つしばしペットの糞や路の春