宿は引き払って空港へ向かう。
引っ張ってきたサムソナイトを空港のコインロッカーに押し込む。サンチョパンサよ、コインロッカーベイビーよ、しばしの別れじゃ。
出張旅費の制約があるとはいえホテルに待機させるのが主の思いやり親心というものであろう。が、われもまた宮仕え、一介のしがないストレンジャーの身。主無きカバンをひとりホテルに泊めおく外貨を節約すべく、泣く泣くチェックアウト、コインロッカーに置き去りにするという手段しかなかったのである。
ホテル一泊65dkrが2.5dkrで済むのだから。
ポーターのチップは1dkr(デンマーククローネ)が相場。
ついでに書くと、二回メシを抜いて一回贅沢をするというのがマイトラベルパターンだが勿論贅沢ったって多寡が知れている。ENTRECOTE(ビフテキ)23.45dkr、TUBORG(ビール)4.25dkr、COFFEE4.10dkr、チップ5.00dkr 合計36.8dkr。
両替を4ドル=30dkrのレートでしているから7.5dkr/㌦。ということだ。円にすると360yen/$の時代だから、1,800円の夕食ということになる。今のレートではお代金550円だから隔世の感うたた、ですね。
かくてキホーテはサンチョパンサをカストゥルプ空港に残して赤白鮮やかなスイス航空機上のひととなった。
――天皇の軍隊はコシタと言ったな。股下と書く。
ふ文字の話である。きのうのできごとが夜っぴて尾を引いている。
ふ文字がT字帯まできて気が付いた。
いやたいしたことではないのだが、ローマ字と漢字とで、〈T〉と〈丁〉が形も読みもそっくりという事実である。
小詰まらないといえば小詰まらないがオモくろいと言えばおもクロい。
どうでもよいではないかといわれればどうでもいいような気もする。
ジェットのこまかい振動が、気持ちよくうつつと雲上の境にある或るものをトランプの場札をめくるようにわが脳膜から剥離しにかかる。
アルキメデスと西洋湯船に恨みはないけれど、乗り物の乗り心地はまた格別で、深層心理から思いがけない思想を掘り起こしてくれるかもしれない。
Tと丁。――どうでもいいのかな。
いや、しかし…〈T字帯(ティーじたい)〉と〈丁字帯(ていじたい)〉、どちらが正しいのか? T字路か丁字路か? T字管か丁字管か?
こうなるとどうでもいいとはいえない。早速日本語辞典の編集会議は甲論乙駁の巣、丁々発止の場となるはずだ。
ましてここは丁抹国である。三角テーマーク(電気規格の俗称)を問題にしている。
丁問題はないがしろにできぬ。
三省堂の《大辞林》ではすべて「丁(てい)」を採用していた。
ま、そうだろう。〈T〉をテーと発音していた時代のハナシである。同じ読みなら日本語の丁を、となる。
いまは日本人も〈T〉をティーと発音してもキザに聞こえない時代である。人々はなんらの違和感なく、T字帯・T字路・T字管と思っているのではないか。辞典もテー正すべきである。
ハナシがもっと逸れるが、われわれの時代は喫茶店をキッサテンと言わずキッチャテンと言った。ティールームはチールームである。
この野暮ったい読み方が「正しい」国がある。
ブラジルの公用語はポルトガル語だが、本国と異なりteをテと読まずチと読む。例えばgente(ひと)を葡国ではジェンテといい、伯国ではジェンチという。Gentlemanジェントルマンはここからきたのかな? Saudade(郷愁)はサウダーデがサウダーヂとなる。
方言はひとの息づかいから生まれた血の通ったコトバである。
大切にしようではないか。純正国語として〈チールーム〉を採用しようではないか。
でもチールームはどうも…う~んそれもそうだね。チーはともかくテーと読む国は多い。〈茶〉はティーではなくむしろテーのほうが多いのではないかね。
二時間もしないうちに飛行機は下降を始めた。ズウリッチ空港には出迎えの社員が待っているはずだ。チューリッヒのことを英語圏ではズウリッチというらしい。
かなり軽薄に見える服装のおにいさんが迎えてくれた。瀟洒なレストランで昼食をすませてHBH社の取引先SOLISに向かう。このおにいさんの名前を忘れたので一存で仮にリヒャルトとしておこう。ゲルマン系としたのも一存のうちだ。
仮に付ける名前というのがある。
市役所で申請書の「見本」が置いてあって用例を示している。申請者氏名欄が東京なら「東京太郎」とか「東京花子」になっている。太郎や次郎、花子は誰と特定しない物語性非現実性をあらわす「記号」として働く。
ただ太郎冠者や次郎柿、坂東太郎・筑紫次郎や太郎月(一月のこと)次郎の朔日(二月一日)のように「太」「次」にはもともと序数一、二としての意味しかなかったが、太郎・次郎はこれを匿名化し普遍性とフィクション性をもたせる手段として用いられた。
その有する親和機能から太郎次郎に「子ども」のイメージを抱く向きもある。しかし本来この名称だけで以て一概に子どもの話であると取るのはまちがいで解釈に当たっては必ず別の指標をあわせて参照すべきであると思うのだがどうだろう。
英米では仮に付ける名前はJohn DoeやRichard Roe、女性ならJane Doeである。レセプションで署名を求められるとき、「ジョンドー、プリーズ!」といわれることがある。
迎えに来たソーリスの社員はリチャード、フランスならリシャールかな?ここではゲルマン系としてリヒャルトにしたというわけである。シュトラウス、ワグナー、ゾルゲ…みんなリヒャルトだ。
リヒャルトは食事中もよくしゃべっていた。すぐ打ち解けた。
ネゴはうまくいきそうな感じさえしてきた。
しかし食事はすすまなかった。頭がいっぱいだと腹もすかないものだ。
リヒャルトはうまそうにぱくついている。交際費で伝票は落ちるのだろうしそりゃあうまいはずだ。
スイスはヨーロッパのグルメの一等だ。ましてチューリッヒはJALでも超おすすめどころときている。仕事でなければメシのうまさにヨーデルのひとつでも歌いたくなるところだろう。
音痴でも裏声ならごまかせるかもしれぬ。――ようこそヨーデルの国へ!
リヒャルトの運転は乱暴だった。
昼休みは自宅で時間をゆっくりとりまた出社するとかでこの時間帯は第二のラッシュになる。
間を縫うようにして坂道をあがり花壇のあいだの玄関を抜けて面々の待つ応接に入った。
ここでも通訳を用意してくれていた。ドイツ人で日本に8年いたという。マダム・ツェラー、あだ名をメルケルさんとしておこう。現ドイツ首相によく似ている。
「…よくわかりました。日本に持ち帰って耐圧をクリアするように仕様変更を検討しましょう」
「チョメチョメチョメ…(メルケル、現地語に翻訳。向き直ってニホンンゴで)スイスのスタンダードを変えることは許されません。スペックの変更は許されません」
「ですから、これに電気的に合格するように電線の被覆を厚いものにして…」
「チョメチョメチョメ(こちらを向いて手をひろげながら)ゴーカクてわかりません。ヒフクは許しません。検査をします。検査はこっちの仕事です」
「ですから、検査してもらうために…」
「ケンサこっちの仕事です。あなたなに言う…」
「話の腰を折らないでくださいよ、マダム・ツェラー。ヒフクというのはポリ塩化ビフェニールの、いや、ちがった、もとい、塩化ビニールの皮でかヴぁーした…」
なに言ってんだかこちらがオカシくなってきた。ユビラは昼食のときはあんなに人懐こかったのに妙に縮こまっている。あ、名前、思い出した。ユビラくんだ。
オダサクがにやにやしている。あ、これも名を忘れたのであるが、長躯で痩せ形の風貌が織田作之助に似ているのでこういうことにしたのだが、オダサクは技術者で本業は電気試験所の検査官らしい。ソーリスが専門家に委託したということらしい。彼の英語のほうがよくわかった。通訳はいらなかった。ぼくの説明よりも通訳の説明のほうが異常に長すぎたり逆にエラク端折ったりする。
東洋のジパングに住んだ経験をかねて自慢していた。で以てニホンゴがそれほどでもないと見られては女が廃る。痩せても枯れても帰国子女だ。(まるで正反対で太ったオバハンだけれども)
どうもこのニホンジン、ソーリスにクレームを付けに来たみたい。ソーリスはあたしのスポンサーだ。カネをくれるのミカタする当たり前ノコトある。
ということじゃなかろうか。――タスケテエ、カツコさ~ん!
オダサクは人物だった。真意を正確に理解しサンプルの試作期間の見積もりもすんなり受け入れてくれた。
通訳よりも図面と技術用語と或る種の手話が意思の疎通に役立った。
スイス規格はデンマーク規格よりもシビアであった。
スイス規格に適合する電気製品ならヨーロッパどこでもノーパスで とおることが今回の出張でわかった。
HBHの販路を予想以上の大きさで開拓したことになった。
スイス一泊も不要になり、とんぼ返りでコペンに戻った。
――日帰りをゴネたがゴネ損になった。