春の水とは 補3 | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

男女入れ依然暗黒木下闇

ティーグル・モリオンさん
句解を拝見いたしました。みごとな分析と的確な評価はじゅうぶんにこの句の魅力を語っていると感得しました。モリオンさんのような深い読み込みには及びも付きませんが私なりに感じたことを述べてみるのも一興かと以下あえて筆に上せる次第です。
著名な俳人の句をイジるのは非礼にすぎるかとも思いますが、閑居老人のたわごととご寛容ください。

まず申し上げたいのは第一印象が上五の「男女」も「入れ(る)」も随分蕪雑なことば遣いに感じたことです。
「依然暗黒」の生硬さも不自然でおだやかな下五との違和感が際立っているようです。あたかも衝突効果を図ったかのようです
「木下闇」の擬人法(入れるの主格として「木下闇」を据えた)と解釈しました。この句は一見「男女」と「木下闇」の「取り合わせ」のように思われるがそうじゃない。一物仕立ての句だからです。
朗誦するとごつごつした感じで、朗誦は期待せず目で鑑賞する目的で作られた作品ではないでしょうか。その証拠に一字を除いてすべて漢字だからです。一字の仮名にしてもできれば作者は省いて

  男女入依然暗黒木下闇

としたかったのだがこれだと10字になるので11字にするため涙を呑んで「れ」をいれたと推察されます。(奇数でなければならない)
俳句が聴く文藝でなく観る文藝になったのは当然のことでしょう。そしてその一方で漢文字が固くてやまと文字がやわらく感じる(漢文字を男文字といいやまと文字を女文字という)のも文字づらを飾るのに便利に用いられて、句に仮名をつかうか漢字をつかうか漢字のなかでどの字を当てるかが技巧のひとつになったのです。
漢字だらけの句も俳句の手法のひとつとして世間にひろく流布していることはご承知のとおりです。
その理由は、漢文を読みこなし中国の故事に詳しいことが知識人の要件であり漢詩を作れることが文士の教養として要求された時代の名残にあるといえるでしょう。因みに私もまたその影響下にある者のひとりであります。

漢詩系とすると、蕪雑も生硬もすぐれた特性として評価はプラスに作用します。逆転ホーマーってわけです。「木下闇」もヘナヘナした雅語からはみ出て暴力性のある底知れぬ奥、いわばブラックホールを暗示しているようです。アダムトイヴの物語です。

「入れ」と「容れ」
同じ意味だが「入れ」は、小ぶり「容れ」が大きいと述べておられます。おそらく「包容」からそう感じられたのかと思いますが、語感から母親の「抱擁」まで演繹されたのかもしれませんが、別の見方もありそうです。
私はこう思います。

「入れる」は動作をともなう動詞。戦争スル、のように。
意味は、移す、加える 例。「いま、入(はい)れますか?」
入場 入会 入魂 出入
「容れる」は状態を示す動詞。平和ニナル、のように。
意味は、受け入れる、認める 例。「何人容(はい)れますか?」
容量 容器 容認 収容
つまり「入れる」と「容れる」は意味がちがうのです。
もうひとこと付け加えれば、「入れる」の積極性です。江戸期に「老入」(オイレ 老い入れ)ということばが「老後」よりも一般的に使われており、意味合いも前向きで“改めて活動する”ニュアンスなのだそうです。ここは「入れる」が措辞として最もふさわしいのでしょうね。


俳人橋本多佳子について
橋本多佳子と言えば俳句に格別の関心も無い人々を含め広くその名を知られた存在です。
とコメントがありました。

私は迂闊にも名前を聞いたことがある程度で殆ど知らないといってもいいほどの無関心ぶりでした。このことがあって詳しく知ることができました。

しかし一方でほんとうに有名なひとなのか、俳句に無関心な人でも知ってる? えっ、そんな? という疑問も芽生えてきました。
近所の人はだれも知りませんでした。町内会長の奥さん? が唯一実のある答えでした。
タワラマチコ世代に或いは? と思い女子校生徒に聞きました。まったく意外なことに知っていたのです。どのコも大好きというのですよ。驚きました。じゃ、どれがすき? と訊くと、架空の楽園、誘惑のパフューム、… どうもヘンなんです。橋・本・多・佳・子だよう? そうよ橋本多佳子センセイよう。この食違いはなにか?
漫画家に同姓同名の橋本多佳子がいるのでした。このひとはチョーユーメーです。
有名度にかんしてはまさかこの少女マンガ家と混同している? と一瞬疑ったのですが…


残念なことに「男女入れ」は代表句には無かったのですが変わりに
次の句を拾ってきました、

  白桃に入れし刃先の種を割る

ドキっとするような怖い句ですね。女の感性が鋭く出ています。もう一句牡丹の句がありましたので、

  牡丹照り女峰男峰とかさなれる

私も多佳子が好きになりました。


おまけに別解。
木下館という場末の映画館の入り口の垂れ幕をくぐってアベックが入っていくスケッチ。
昔の映画館はドアの内側にもうひとつ重い暗幕がありそれを手で払いながら中に入ったものです。映写面が明るくなかったせいもあって、なかは真っ暗で目が慣れるまでなにも見えなかった。現在は消防法の規定でルクスが決められており上映中でも明るいですが。
という事情を知った上で野暮ったさを表現した句として。
  

もうひとつのご指摘。「難語」について。
私の造語かと思いましたが、そうではありませんでした。
三省堂「大辞林」「漢字表記辞典」、角川「国語辞典」に記載されていました。「難解」と同様古くからある熟語のようです。
字義は、意味のわかりにくい言葉。「――集」 とあります。
因みに私のブログのテーマのひとつが「喃語何語難語」であります。喃語についての質問はたくさんありますが、難語についての質問ははじめてだったので一瞬たじろぎました。


夏休みあけの宿題がたくさんありバテぎみです。きょうはここまでです。