春の水とは 補2 | ouroboros-34のブログ

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ごうなっだのでありますぐるらめ。

ぼうたんの崩るや蝶も老ひぬべし

「老ひぬ」→「老いぬ」 すなわち正しくは、

  ぼうたんの崩るや蝶も老いぬべし

この句には別のもっと重い難点があります。牡丹と蝶の関係がはっきりしないことです。牡丹の花が崩れるのは老蝶の足元がふらついたからだという意味だと思うのですが、そうすると「崩れる」を「崩される(蝶によって)」とするほうがよいでしょう。つまり「崩るや」→「崩さるや」
(「春の水とは…7」より転記)

この小論についてティーグル・モリオンさんからコメントがありました。そこにはとても貴重な指摘がありました。
牡丹が崩れるという表現は一意的なものでそこに蝶など他の要素が媒介する余地は無い、と。
私は「崩れる」ということばを字義のままに捉え、「大きなものが倒壊する」、植物でいえば牡丹・椿・槿など大きくてあでやかな花が散るときの「一般的な表現」としてふさわしいものだろうと考えていました。しかし「牡丹は崩れるもの」自壊するものとする日本人の美意識に讃嘆するとともにそれを指摘したティーグルさんの慧眼に心服しました。卓見です。
かつまた、桜は散ることを愛でる日本人は多いが、牡丹は崩れることを採り上げる句は左程ではないのにこれに着目して句にした悠さんにも敬服します。
牡丹の散った花弁を愛でる句としてポピュラーなものに次の句がありますね。

  牡丹散て打かさなりぬ二三片    蕪村

これも「散て(ちりて)」です。「崩れる」がひとつsりました。

  白牡丹学萼をあらはにくづれけり   蛇笏


さてあらためて句を拝見するのですが。何回よんでも意味がはっきりしないのです。
言われてみれば「牡丹が崩れる」「蝶が老いる」で、「取り合わせ」の俳句的趣向は明らかです。「一物仕立て」と解した私はまちがいです。
「取り合わせの妙」で「春老ゆ」の効果がでてくるというモリオンさんの解釈の深さは私の到底及ばぬところでした。
ここまで予習してあらためて句をよんでもまだ私にはピンとこないのです。
なんとなくわかるがなんとなくわからない。そんな感じが当初から付き纏ってましたが、ここまで来てもまだ尾をひいているのですよ。

そこで原因を探ることにしました。
改めてモリオンさんのコメントを見てみました。

ぼうたんの崩るるや蝶も老いぬべし

原句の「崩る」が「崩るる」になっています。この意図はなんでしょうか。なぜ終止形が連体形になっているのでしょうか。

「崩す」(サ行四段)の未然形に受身の助動詞「る」がついたもの。クヅサルでないことはモリオンさんの指摘によりダメですね。
「崩る」(ラ行下二段)終止形クヅル 連体形クヅルル

「や」の解釈がむずかしい。
切れ字?
「や」は俳句の初心者に最もよく使われる切れ字です。「や」をいれれば俳句らしくなるとあって無造作に使っています。《古池や》の刷り込み教育のなせるところでしょうか。
切れ字「や」間投助詞。名詞・活用語の終止形、命令形に付く。強意、相手の気持ちを引き、話し手の感動を伝える。
これでゆくと「崩る」が正しくて「崩るる」があやまり、となります。
更に切れ字の「や」はほとんど(おそらく90%以上が)名詞に付き、動詞に付くのは少ないのです。
更に更に、切れ字の位置は五か七か五の後方支援に限定されるのです。(古池や、のように)俳句においては切れ字はリズムをつくる役目も帯びているのです。
掲句のように中七のあいだにくることはないのです。したがってこの「や」は切れ字の「や」ではありません。
じゃあ、接続助詞の「や」でしょうか。これも活用語の終止形に付きます。意味は……するやいなや。
これでもないですねえ。なぜなら、崩れるとすぐ蝶も老いるでしょうでは意味をなさないから。瞬間的なできごとと「老いてゆく」という継続した時間状態とは合わないから。
係助詞としての「や」か?
「や」係り助詞。 文中にあって係りとなり文末の活用語を連体形で結ぶ。 疑問の意。反語反問の意。
「ぞ」「なむ」「や」に用いられます。
「や」の後の動詞「老いぬべし」に係るので(前の動詞の「崩る」だはなくて)「老いぬべき」となる。
以上のことをまとめると候補が下記の4句になるのですがどれがベストかは私にはわかりません。

ぼうたんの崩るや蝶も老いぬべき  (「や」が係り結び)
ぼうたんの崩るる蝶も老いぬべし  (「や」が無い)
ぼうたんや崩るる蝶も老いぬべし  (「や」がぼうたんを取り出し)
ぼうたんの崩るる蝶や老いぬべき  (「や」が蝶を取り出し)

「崩るる」は連体形ですが、すぐあとの蝶に付いているのではありません。連体止めという句法のひとつです。
ほかの例で検討してみましょう。


  山も庭もうごき入るるや夏座敷    芭蕉

  ぼうたんの崩るるや蝶も老いぬべし  再出


「入るる」と「崩るる」のちがいです。
誰しも同じ用法のように見えることでしょう。
芭蕉の句は一物仕立てです。再出句は先述したように「ぼうたん」と「蝶」の取り合わせの句です。
したがって「入るる」が夏座敷にかかるのに対し、「崩るる」は「蝶」にかかるのではないのです。「入るる夏座敷」ではあるけれども、「崩るる蝶」ではないのですよね。「や」が切れ字でないことも示しています。

ということになろうかと思います。
以上私の考えるところをご覧にいれましたが、常日頃古文をたしなんでいる俳人ではなく一介の市井人にすぎないので勝手な思い込みもあること存じます。遠慮なくご教示くださるようおねがいします。