白井藩主本多家の墓が源空寺(渋川市)にあります。
(左から紀定・広孝・広孝正室)
白井藩主本多家(豊後守家)は徳川四天王にも徳川十六神将にも数えられていないし、白井藩は3万3千石(康重2万石、広孝1万3千石)の小藩ですから地味な存在ですが、徳川将軍家からは絶大な信頼を置かれていました。
本多広孝は家康の父松平広忠に仕え「広」の字をもらい、家康にも今川家の人質だった頃から仕えています。家康最大の危機のひとつである三河一向一揆でも土井城を根拠に一揆衆を撃退しています。
白井藩時代藩康重に家督を譲り広孝は隠居の身でしたが、菩提寺として浄土宗源空寺を建立し、在住7年目の1596年(慶長元年)に70歳で亡くなりました。
康重は1601年(慶長6年)に三河岡崎城に五万石で移封となりました。
以後、松平康長(2万石)、井伊直孝(直政次男・1万石)で藩主となります。直孝が彦根藩主となると、 1681年(元和4年)康重の二男紀貞が白井藩主となります。1624年(寛永元年)死去。跡継ぎがなく廃藩となりました。
3人の戒名です。
・本多広孝 全性院殿前越州大守玉岸道楚大居士神儀
・広孝正室 長寿院殿誘誉宗引大姉霊儀
・孫 紀貞 源光院殿前備州然誉宗廓大居士
目をひくのは戒名から2点、広孝墓の3面に彫られた漢文の3点です。
戒名の構成は院号・道号・戒名・位号です。この原則を徳川四天王榊原康政で例示すると、養林院殿上誉見向大禅定門(※1)です。広孝墓は全性院殿・前越州大守・玉岸・道楚・大居士・神儀となり、
① 広孝墓は院号と同号の間に前越州太紀が入り、紀貞墓も同様に前備州が入っています。
② 位号の後に広孝墓は神儀、広孝正室墓は霊儀が付属しています。霊儀・覚位などが付属することがまれにありますが、仏教墓で「神儀」が入るのは特異です。
③ 広孝墓には正面を除く3面に漢文で業績が彫り込まれています。
なお、この墓塔3基は当時のものではなく、1715年(正徳5年)の広孝120回忌にあたり、広孝5代孫の助芳(初代信濃飯山藩主)が源空寺に建立したものです。
本多広孝の墓碑に関する暴論
調べても本多豊後守家と儒学の関係は判りませんでしたが、墓標の「全性院殿前越州大守玉岸道楚大居士神儀」の中に「前越州大守」と入っていたり3面に功績が漢文で記されて儒式墓を連想させます。しかし、前橋藩主酒井家の儒墓群(例:5代藩主忠挙・故従四品羽林将酒井雅樂頭忠挙府君之墓)のように個人名が入った明確なものではありません。
また神儀は初見です。神仏習合の時代、神職でも戒名墓でしたからかなり特異です。林羅山以降の儒学は仏教を嫌い神道とは親和性があるので、顕彰的な「前越州大守」と「3面に漢文」に加え「神儀」を加える事により、仏教色を薄め儒式墓(※3)の雰囲気を出したかったのかも知れません。
※1 禅定門を居士より下位する見解が専門家にもSNSでも見られますが、榊田康政の例でも分かるように居士と同等かそれ以上の位号であるというのがのめしこきの見解です。
※2 神職の神葬祭は江戸末期になって、吉田神社の免状を持つ神官とその嫡男にのみ認められました。
※3 最初の儒式墓は林羅山が朱熹の「家礼」に則って立てた妻荒川亀(1656没:順淑孺人荒川氏亀媼之墓)の墓と言われています。
大名家では水戸徳川家2代光圀が初代頼房(1661年没)のために立てた墓や池田光政が1667年(寛文7年)に祖父輝政、父利隆のために立てた墓(京都妙心寺より改葬)が儒式墓の始まりでしょう。