興禅寺本堂の裏手にある墓地の一角にあります。
築城年代は不明ですが三原田城は三原田義高によって築かれました。貞治年間(1360年代)に長尾氏が上野守護代として白井城を拠点とすると三原田氏に代わり永井氏が支城としての三原田城を預けられたと伝えられています。
紀年銘が判読できた1基を載せます。上の写真で右から4基目です。
その1基が基須弥壇型宝篋印塔でもあり、のめしこき的には大儲けです。
須弥壇型とは宝篋印塔の基礎と塔身の間に須弥壇が設けられている、埼玉北部と群馬県にのみ認められる形式です。
逆修(生前供養)
久堂
〇〇
應永三十四歳(1427年)
○○○○〇(月日が彫られているようです)
須弥壇型宝篋印塔の主、久堂(法名)の時代、白井長尾氏は長尾景仲()が関東管領山内上杉氏の家宰、上野国・武蔵国守護代を勤め、隆盛を極めていました。
久堂はその白井長尾氏の家臣として墓所に参拝し圓忠(1424年・応永31年没)らの須弥壇型宝塔を目にしているでしょうから、逆修供養塔造立時にそれに倣ったのではないかと想像しました。