田中吉政の墓はちょっと変わってる | のめしこき日記

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 九州定年旅行で巡った32万石柳川藩主田中吉政の墓です。お寺の本堂下に埋葬された大変珍しい墓です。

 

概 略
 柳川藩藩主田中吉政(初代)・忠政(2代)父子はキリスト教に寛容で、吉政は洗礼名(バルトロメヨ)を持ち、忠政はキリシタンを殺害した家臣を即座に処刑した逸話を持ちます。ですから、隠れキリシタンの墓として真勝寺の本堂下に営まれたのかと想像していました。しかし、真勝寺本堂全体が田中吉政の墓として建立されたというのが実際のようです。


吉政・柳川藩概略
 吉政(1548~1609年)は近江の農民出身で、1582年豊臣秀次の家老(5千石)、1585年筆頭家老となり、1590年には岡崎城主(5万7千石)、秀次失脚に際しても咎めなく「よく諌言した」という事でかえって加増され10万石の城主となっています。
 関ケ原の戦い(1600年)では東軍に与し、石田三成を捕縛する勲功をあげました。捕縛された三成を手厚くもてなし、三成も「他のものに捕まるよりお前に捕まる方が良い」旨の逸話が残っています。戦後評定では築後32万石柳川藩主となりました。
 柳川城の大規模修築、久留米・柳川往還の整備、有明海の干拓堤防(慶長本土居)の築堤など基盤整備事業に大きな功績を残し、近世柳川の基礎を築いた人物です。
 吉政死後4男忠政(1585~1620年)が藩主となります。開拓などに貢がありました。柳川藩は無嗣断絶となり、柳川藩(立花宗茂:10万9千石)、久留米藩(有馬豊氏:21万石)、三池藩(立花種次:1万石)に分かれました。

 遺言か2代忠政の考えかわかりませんが、吉政は真勝寺の本堂下に埋葬されました。

 

(真勝寺:田中吉政の墓)

 

 埋葬後真勝寺が建立され、本堂全体が墓で、本堂下の石碑は埋葬場所を示す目印と考えればよいようです(見学時に住職より伺った説明)。
 

 石碑は32万石国持ち大名としては大変小さく簡素なものですから、通常の墓碑と考えるより住職の言の通り「埋葬場所の目印」と考えるべきでしょう。ですから、本堂は廟(建屋)ではなく、この碑を含めた本堂全体が墓所と考えるべきでしょう。

 

 正面に2行文字が刻まれているようですが、判然としません。

 田中吉政・忠政はキリスト教に寛容だったようですから、キリシタンの墓碑として造立し見つからぬように本堂下に隠した可能性もあるかも知れないと、見学前は少し思っていました。しかし、以下の点で否定されると考えます。
①キリスト教の墓石とデザインが違い過ぎる。潜伏前のキリシタン墓は半円筒伏碑型(かまぼこ型)や直方体型で、正面に

花十字や

 

カルワリオ十字(干の形。写真は台つきのカルワリオ十字)を彫るのが一般的ですが、それらしきものは吉政の石碑には彫られていません。

②吉政は円光院殿崇厳道越大居士の戒名を持ち、真勝寺(柳川市)の他、善導寺(久留米市)・龍光院(京都市)・吉祥寺(東京都)にも墓所がある事。

 以上の事から、田中吉政・忠政父子はキリスト教に好意を持っていたけれど、仏教を拒否するほどの信心があったとは思えません。真勝寺住職の説明の通りだと理解しました。