九州定年旅行で訪れたキリシタン墓碑です。
隠れキリシタンではなく、潜伏する前の時代のものです。
島原半島一帯を治める有馬氏とキリスト教の関係は次の通りです。
・有馬晴純(1483~1566年)は南蛮貿易で潤いましたが、キリスト教が広まるのは嫌い弾圧しました。
・晴純の子有馬義貞(1521~1577年)はキリスト教への改宗を政治的地位や命の危険などから逡巡していましたが、1576年(天正4年)洗礼を受け、キリシタンとなりました。1562年口之津港をポルトガルとの貿易港として開港。
・貞義の子有馬晴信(1567~1612年)ははじめは嫌っていましたが、1580年(天正8年)に洗礼を受け熱心なキリシタンとなりました。伴天連追放令が出た後も積極的に宣教師を受け入れ、多くの領民をキリスト教に改宗させ、長崎港に近い浦上の地をイエズス会に寄進しました。1582年天正遣欧少年使節が口之津港より出発。
・晴信の子有馬直純(1586~1641年)ははじめキリシタンでしたが、1612年キリスト教禁教令が出されると改宗し、領内のキリシタンを迫害しました。
・1587年豊臣秀吉による伴天連追放令(神父・宣教師追放令)。
・1612年と1614年江戸幕府によりにキリスト教禁教令。布教を禁じ、教会は破却。
・1637~38年島原・天草の乱。
口之津は1562年有馬義貞によりポルトガル船の寄港地として許され、正式に南蛮貿易港として開かれました。
その口之津港の東数百mの防風・防砂の松林の中にあります。
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県指定史跡キリシタン墓碑。半円筒伏碑がキリシタン墓碑の特徴で、この墓碑は正面に花十字紋が線彫りされています。
年代や人物名が彫られていたかは風化のため不明です。
この墓碑が禁教の時代に破却されることなく残った原因は、①砂中に埋められた、②人通りの少ない砂浜の松林の中という立地が考えられると思います。
また南島原地区の当時の領民はほとんど島原天草一揆で死亡し、移住政策により入って来た仏教徒ばかりになっていますが、③もしキリシタン墓に気づいたとしても自分がきっかけで墓が壊されるというのは抵抗があり、知らぬふりして届出る事は少なかったのではないかと推測します。島原藩庁も届が無ければ「寝た子を起こすな」と知らぬふりをしたのではないかと推測します。
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賑やかだった口之津港を眺められるこの場所でさざ波を聞きながらキリシタンが眠っています。