山王廃寺跡(方広寺跡)再び 前橋市総社町 | のめしこき日記

のめしこき日記

「朝日新聞のウソ」は当該記事を削除させ、教育現場の名誉を
回復するために定期的にアップします。

石造物に関しては宜しかったら別ブログをご覧ください。
「石造物を巡る https://nomeshikoki17.fc2.page/」

 山王廃寺跡は2018年7月に見学していますが、宝塔山古墳蛇穴山古墳の王(上毛野氏)が山王廃寺を作った可能性が高いと知って、再び訪れました。

 現在は山王廃寺跡で国指定史跡になっていますが、研究が進めば方広寺跡の名称に変わるのだろうと思います。

 

 方広寺と彫られた瓦、方広とスタンプされた瓦が出て、山王廃寺は方広寺とみて間違いないので、このブログでは以下方広寺という事で。

  741年聖武天皇が鎮護国家の祈りのために日本各地に国分寺・国分尼寺建立を命じましたが、方広寺はそれより前の600年代後半には建っていたことが判っています。80m四方の回廊で囲まれた大寺院です。東国では最古・最大級の寺院でした。

 

 世界記憶遺産上野三碑の一つ山上碑は681年に方広寺僧長利が立てたと彫られているので7世紀末には方広寺が存在した事は間違いありません。発掘調査の結果では1030年頃には荒廃していたことも判っています。

 

 建屋に保存される塔心礎は五重塔の心柱の基礎石です、

 中央の穴は仏舎利を奉納する穴と柱のホゾ穴と

 根巻石が柱を

(前橋市教育委員会パンフレット:山王廃寺跡より)

 このように支えました。

(総社歴史資料館レプリカ)

 そして朱塗り柱が立っていたのでしょう。

 金堂には石製の鵤尾(しび:火事よけ)が乗っていました。

 竪穴式住居に住んでいた一般人からすればとんでもない巨大建築で驚愕したことでしょう。

 

 それにしても、飛鳥時代の600年代後半に方広寺ができ、奈良時代の750年頃(建立の詔は741年)に国分寺・国分尼寺が完成し、方広寺も国分寺・国分尼寺も1000年過ぎ頃藤原道長の頃に廃れました。

 同時代にこんな接近して大寺院があって、鎮護国家の祈りはどちらの方が効くとか、学問はどちらが優れているとか、方広寺と国分寺の僧はライバル視とかなかったのかな?(超俗人の考え)。