椿説関ケ原 | のめしこき日記

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 慶長5年徳川家康率いる東軍と実質石田三成率いる西軍が天下を賭けた関ヶ原の戦いは、西軍諸将の寝返り・不参加により1日で決着がついた。この戦いを知らない日本人はまずいない。

 しかし、令和5年のもじゃもじゃヶ原の戦いをどれだけの日本人が知っているだろうか? 

 

 野飯家安は思案していた。落馬による不如意な腰をひと月養生する間に、もじゃもじゃヶ原は一面西軍の勢力が濃くなっていた。 

 前線の固め網目城主虎井元忠(とらいもとただ)を救護しなければならぬ。

(虎井元忠守備之図)

 もうしばらくの辛抱だ。

 

(家安下知之図)

 野飯家安は織田護謨長公より拝領の長草鞋、南蛮渡来の軽兜、古式の由仁黒を身にまとい、もじゃもじゃヶ原に立ったのであった。

 腰痛軽癒の由、文字通り立ったのであった。

 合戦に臨むにあたり、徳川四天王ならぬ野飯三天王を糾合せんとしたが、

 最も信頼する酒胃忠注(さかいただつぐ)は突然出家し写経しだすし、

 老臣本駄忠寝(ほんだただね)は本日も昼寝。

 野飯勢で最も機動力ある飯飯尚飯(いいなおめし)は兵糧消費しただけで逃散。

 

 さすが天下人の器、野飯家安は三天王の不参加を咎めることなく、孤軍奮闘もじゃもじゃヶ原を平定したのであった。

 ものは次いでその勢いを駆って、

 フキヶ原も平定したのであった。

 

 慶長5年関ケ原では伏見城の鳥居元忠は討死したが、コンプライアンス重視の令和5年もじゃもじゃヶ原では網目城主虎井元忠は難なく救出されたのであった。