なぜ酒井家の墓がこのような形式だったのか分かりました。お知りになりたい方は「石造物を巡る」をご覧ください(2024年2月24日追記)。
前橋藩主・姫路藩主酒井雅樂頭家の墓を見学して思ったこと(備忘録)。
事例が少なすぎて信頼性に欠けますが、長野家の墓、皆川家、榊原家の墓や仙石家の墓にみられるように、戦国時代~江戸時代初期の大名墓では五輪塔や宝篋印塔に戒名を刻むのが一般的かと思います。
(徳川四天王:榊原康政の墓)
墓石の形
酒井家は墓石は大きくはあるものの円頂方形墓が中心でした。
墓石の文字
戒名が彫られたものはなく、「従四品」「従四位下」「羽林」「少将」「雅樂頭」「主計頭」など社会的地位の高さを示すものが彫られていました。死が隣り合わせの時代は仏教にすがる気持ちから墓石に戒名を彫って供養したけれど(逆修供養・追善供養)、故人を顕彰する意識が強くなったためでしょうか(榊原康政・仙石秀久の墓は戒名が彫られていますが)。
前橋藩主時代は見られなかっ「源朝臣」「城主」が姫路城主時代には頻出するようになりました。
(小渕恵三元内閣総理大臣の墓)
今でも有名人や戦死者のお墓では戒名より生前の名前が彫られている場合が少なくありません。寺請制による仏教の形骸化と共に、平和な時代になってからは父祖の社会的地位を顕彰したいという心性に変わっていったのでしょうか?
そういえば、足利義満・武田信玄・上杉謙信・安国寺恵瓊などは仏教を篤く信仰していましたが、天下泰平の江戸の世になって、そういう藩主・家臣はいたのでしょうか?