百瀬の水牢跡 | のめしこき日記

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 水牢は全国的には珍しいようです。

 沼田真田氏の圧政の象徴として見られる水牢ですが、それ以前の岩櫃城主斎藤氏の時代からあったそうです。

 【水牢は吾妻東部だけしか見られず8か所あり、百瀬の水牢が一番原型を残している。

 12m四方に粗朶を結い、女は水を70㎝くらいにし、子どものあるものは背負わせ単衣にさせ5人くらいを袖に縄を通して、男は首のつかるまで入れた。体温低下で死んだ者もいた。

 岩櫃城主斉藤氏が使ったものと推定され、それを沼田真田氏(真田信利)も使ったと考えられている。】

 

 ここで疑問。

 江戸時代には村請制・五人組制で年貢を納めていた訳だから、納められなかったら周りの人たちが補填したはず。それとも村単位・五人組単位で入れられたのか? 本当に機能していたのか、伝説なのか? 

 

 年貢を納めるのは収穫が終わった晩秋に水牢に入れられたらすぐに気絶・死亡してしまうでしょう。

 農民が死んでしまったら、あるいは夜逃げされてしまったら、大事な生産者を失う訳ですから、それほど過酷なことはできないと思います。また、岩櫃城主斉藤氏の時代は兵農が分離していない時代ですから、兵力の低下も招きます。

 農民の反感を買えば一揆の可能性もあります。

 

 真田伊賀守は年貢の取り立てが厳しく、杉木茂左衛門の直訴によって改易されたのですから、圧政があったのは事実ですが、かなり尾ひれのついた話の様に思います。

 文献があるのかなぁ。