今回の神長官守矢資料館訪問の主目的は、前回は時間がなかった大祝(おおほうり)諏訪氏の墓を見学する事でした。諏訪大社上社の生き神様とされる大祝を代々努めてきた諏訪氏の墓が神長官守矢博物館の裏にあるのです。
墓標マニアののめしこきとしては、次の3点が気になっていたのです。
①江戸時代より前に神道の墓はあったのか
②墓石の形
③個人墓か夫婦墓か
結果。
①江戸時代より前は戒名がついていた
生き神様なのに戒名・・・これはある程度予想していました。明治を迎えるまで長い間神仏習合でしたし、江戸幕府は寺請制度を設けていましたから。
諏訪大社上社の神宮寺は現存していませんが、江戸時代には隆盛を極めていたようです。
(安永9年、1780年)
下が土に隠れて見えません。○○院殿の下、○○大居士か大姉かわかりませんが、個人墓です。
②墓石の形
江戸時代以降ですが、自然石→舟形→箱型(山形、傘載せなどのバリエーションがある)、とデザインの流行が変るのが一般的なようです(墓石の形の呼び方は、のめしこきが勝手に呼んでいるだけです)。
ところが大祝諏訪氏の墓石は江戸時代はずっと自然石でした。さすがは諏訪大社上社の生き神様、大きく硬そうな石でした。
③個人墓か夫婦墓か
一般庶民の墓(といっても墓石を残すのですから、裕福な庶民だと思います)は、個人墓→夫婦墓→家墓と変化してきました。
大祝とその妻の墓は個人墓でした。
(天保11年、1,840年の個人墓)
○○院殿○○大姉と読めるように思います。
現在でも大きな功績のある人(※)は、「○○家之墓」ではなく生前の個人名が刻まれた顕彰墓標を建てるのと似ているように思いました。
※ 戦死者の墓は「故陸軍上等兵○○之墓」みたいなもの、群馬県中之条町にある小渕恵三元総理の墓は「小渕恵三之墓」と刻まれています(墓誌の方は戒名)。