新聞の古い切り抜きを整理していて、こんな記事を手に取って拾い読みしているうちに 捨てられなくなりました。池上彰が朝日新聞に書いている「新聞ななめ読み」のある回の切り抜きです。題は「オバマ氏の『抹茶アイス』」とあって、日付は2009年11月3日。なんともう十年近く前の記事でした。
冒頭にはこうあります。「11月14日、アメリカのオバマ大統領が東京で公演しました。新聞各紙は15日朝刊に演説の日本語訳を掲載しました。性格の悪い私は、各紙の日本語訳を比較してみました」。
まず朝日新聞訳が載っています。掲載誌が朝日だから当然というところでしょうが。以下、朝日訳です。
「少年時代、母に連れられて鎌倉を訪れ、平和や静けさをたたえた大仏を見上げた。子供の私は抹茶アイスクリームにより見せられた。昨夜の夕食会で、その思い出を紹介しながらアイスクリームを食べられたことを、鳩山首相に感謝したい。どうもありがとう」
この部分の原文は以下の通りです。
It is wonderful to be back in Japan. という導入に引き続き、
Some of you may be aware that when I was a young boy, my mother brought me to Kamakura, where I looked up that centuries - old symbol of peace and tranquility – the great bronze Amida Buddha. And as a child, I was more focused on the matcha ice cream. ( Laughter. ) And I want to thank Prime Minister Hatoyama for sharing some of those memories with more ice cream last night at dinner. ( Laughter and applause.) Thank you very much.
さて、次に池上氏は、同じ部分の読売新聞訳を紹介します。
「幼い頃、母が私を鎌倉に連れてきたことがある。何世紀にもわたり平和と静寂の象徴だった巨大な青銅の大仏を見上げたものだ。ただ、子どもだった私は、抹茶アイスの方に夢中だったのだが(笑い)。昨晩の夕食会でまたアイスクリームを食べながら、鳩山首相に思い出話を聞いてもらったことを感謝したい(笑い。拍手)。ありがとう」
池上氏の意見は次のようなものです。
「さて、どちらが臨場感を伝えているでしょうか。大仏よりも抹茶アイスのほうに気をとられた、というのが、オバマ大統領の演説のいわゆる「つかみ」です。
オバマ大統領としては、ここで観衆の笑いをとろうとしていたのですね。
朝日新聞訳だと、オバマ大統領の狙いが成功したかどうかわかりません。それどころか、うっかりしていると、読者がオバマ大統領の狙いに気がつかないまま読み過ごしてしまうかも知れません。」
さらに池上氏は、日経新聞訳もとりあげます。もう一カ所の、more です。
「ちなみに夕食会で食べたアイスについて、日経新聞訳だけは『たくさんアイスを食べ』になっています。本当はどうなのか。原文にあたると『(あのとき食べたよりも)たくさんのアイス』と訳した方がよっかたように思えます。」
ところで池上氏が「朝日新聞訳ではオバマ大統領の狙いが成功したかどうかわからない」と指摘する理由は明らかです。
原文が
And as a child, I was more focused on the matcha ice cream. ( Laughter. )
となっているところを、朝日は
子供の私は抹茶アイスクリームにより見せられた。
ところが、読売は
ただ、子どもだった私は、抹茶アイスの方に夢中だったのだが(笑い)。
というように「生き生き」と訳しました。
さて、わたしがどうしてもこの記事を捨てられなかった理由をこれから説明します。生徒たちに「英文和訳」をやらせていると、共通して、ごく基本的なのに、じつにしばしば「守られない」いくつかの事項があることに経験的に気がつきます。そのひとつが、実にこの「more」だったからです。
more が文中にでてくると、10人のうち5,6人は「日経式」つまり全く訳さずに「無視」します。2人は訳しますが「朝日式」つまり「より〜」ですませます。残るたったひとりが読売のような「楽しくも正しい(だって、訳すというのはここまでやって初めて訳したことになるのですから)」訳をします。いや、全滅ということも結構あるかも。このところいわゆる高偏差値の学校でも「まともに訳す」ことを期待できなくなってきました。
どうしてこんなやさしいmore を訳すことが、これほど難しいのでしょうか。その理由は、子どもたちのありようを見ているとよくわかるのです。
比較級が出てきたときに、学習用のドリルでは 比較の対象は than 以下で示されます。でも、実際の「生きた文章」のなかではむしろ、than 以下が書いてないことの方が普通。するともう、文章を読んでいってmore のごときはあってもなくても同じ。そこに「書かれていない、than 以下」を想像して、「ははん、だからここに比較級の more が来ているわけだ」とはならない。そういうふうに「ちょっと余分に頭を使う」のがとてもへた。日経式に「完全無視」か、せいぜい「すり切り一杯」の「朝日式、より〜」でおしまいにします。
例外的に、そういうことを習わなくてもできる、あるいはやらずにはいられない「気の利いた子」が、この世に一割、か、その半分くらいいる、というのがわたしの現場人としての感触です。
よく「なぜ勉強しなければならないか」という問いが(誰が出すんでしょう)
出されますよね。
読売式に訳せる子はこう答えるでしょう。
「だって、おもしろいじゃん」
朝日式は、
「だって、試験に受からなきゃ、就職できないでしょ」
日経式は
「勉強?ただふつうに大学行きたいんで。理由はないっす。」
今、わたしたちの教育はすっかり「せいぜいが朝日式」になってはいないでしょうか。
比較級があったら、読み過ごさないで立ち止まり、ちょっと余分に頭を使って、比較の相手(対象)を想像して訳そう。
今回のまとめです。