こくばん塾 生田英数会 塾長のブログ

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新高3英語クラスについて

 

 現在、春期講習として月曜日に行っている「受験英語クラス」は、4月からも同じ時間枠で継続します。

 4月以降のおすすめの受講コースをお知らせします。

 

 

◆ 受験英語(月・3時間)+ 個別英語1コマ        34.000

◆ 受験英語(月・3時間)+ 個別英語2コマ        40.000

   受験英語(月・3時間)+ 個別英語1コマ+古文(土曜日)40.000

   文系フリーコース(受験英語+個別英語2コマ+古文)   46.000

 

 共通テストの内容が今までと大きく変わりました。文法問題そのものは出題されなくなっています。また、読むべき英文の分量はかなり増えました。

 しかしここで、「ざっとでいいから早く読めばいい」「文法は出ないのだから細かいことを勉強する必要はない」と考えないで下さい。

 「文章を早く読めるようにするには、はじめはゆっくり正確に読むべきだ」というのは、まともな英語指導者の共通した意見です。「精読ができないものに速読・多読の資格無し」なのです。ある時、某私立でストップウォッチで計りながら、「速読の演習」というようなことをさせていました。一文ずつ訳させてみれば、ぜんぜんわかっていない。また、辞書を引かないのでgreenhouse gas (温室効果ガス)を「グリーン→自然→天然」と連想して、天然ガスだと思い込んで解いている、というような笑えないケースも実際にありました。

 発音問題が消え、リスニングの配点が増えましたが、実は平素から「単語を実際に音に出して発音している」ことはきわめて重要です。「言えない単語は聞こえない」からです。たとえば今コロナ禍でさかんにTVやネットで海外のニュースも聞こえてきます。ワクチンは「ヴァクシーン」( vaccine )ウイルスは「ヴァイアラス」( virus )と発音されています。今の高校生にこれを発音させてみると、ほとんどの生徒が「読めない」「読んだことがない」と言います。 すると、ニュースを仮に聞いても、ワクチンもウィルスも「聞こえない」はずなのです。

 学校の教育現場は(全てでは無いでしょうが)こういう残念な状態であることをお伝えしておきます。英米人どおりの発音でなくても、アクセントの位置が正確で、そのアクセントのある母音の発音を正確にする。(日本語には5つの母音しかありませんが、英語には「ア」に聞こえる音だけで3つあります)最低限これだけはやりたいというのが、このクラス目標です。

 

 発音指導、ライティング指導は個別英語ではなく受験英語クラスで行いますので、こちらは高3生必修です。個別英語では各自のレベルに合わせた文法演習、長文演習を行います。

 

 ご本人とも話し合っていただき、4月からの予定を決めていただければと思います。

 また面談がご希望であればいたしますし、こういう時期ですのでメールでもご相談下さい。( kobayakawa@asahi.email.ne.jp

 

 

 

 

 

自宅学習について

 

 コロナウィルスの流行で学校の休みが続いています。

 

 保護者の方から「先生、宿題はいくら出してもいいです。たくさん出してください!」と、お電話をいただきます。お気持ちはわかります。しかし、宿題はむやみに出せばいいというものでもないのです。

 以下、いちど「宿題について」というテーマでブログに書いたものですが、大事なところをもう一度書きます。

 

 ただ大量に宿題を出しても意味はありません。宿題というのは単に「出す」ことよりも「その後始末」のほうが肝心なのです。たとえば進学実績が伸びている新興の進学校では一般に宿題の分量が多いようです。しかし、夏休みや冬休みに演習用の問題集から一定の分量の宿題が出されても、ノートを提出、先生の検印で終わりといいうことも少なくありません。もちろん相当な人数のノートの中身をいちいちチェックなどできない。だからせいぜい確認できるのは「やったか、やらなかったか」でしょう。しかたのない事ではありますが、そのような宿題では出しても出さなくても結局同じです。きまじめにやった友達のノートが、怠け者の生徒たちの間で回覧されているという話を聞いたこともあります。

 

 また、休み中に復習用に薄手の問題集を渡されることもよくあります。内容は基礎確認で、解答もついています。自分で答え合わせをして提出せよ、ということなのでしょう。しかし、基礎確認が必要なような成績下位の生徒は「自己採点で自分を向上させる」というようなことはまず無理だと思ってよいのです。問題を解き、解答と照らし合わせる。成績不振者はまずこのことからして非常に苦痛に感じるはずです。次に、ここはこう思い違いをしていた、原理はわかっていたがここはうっかりしていた、辞書の引き方が不十分だった、など自分で確かめねばならない。そうやって自分を高められるようなら、その生徒は成績下位者ではそもそもいないでしょう。

  反対に、基礎的な問題集を「問題なくこなせる」ような優秀な生徒にとってこのレベルの宿題は「手が疲れるだけの苦痛」となります。

 

 わたしの塾でも宿題はある分量を出しています。塾では一週間に一度か二度程度、数時間しかその子どもと会えません。だから「塾としての勉強への気持ちを連続させていくために」宿題を出すのです。

 宿題の難易度にはもっとも気を配ります。易しすぎて「鉛筆を持つ手がくたびれるだけ」のような宿題を出すと、生徒は教師をいっぺんで信用しなくなります。かといって、ほとんど手も足も出ない、というような難しい問題もまたよくありません。「やりようのない」問題は「やってもらえない」ので。

 分量も大切です。よく「先生、うちの子は部活が忙しくて週二回はとても通えません。その分、宿題をたくさん出してもらえませんか」という保護者の方がいらっしゃいます。ところが二倍出せば、二倍間違える。その二倍の間違いを週一回の授業で直さなければならなくなります。おそらく直しきれないでしょう。

 

 宿題の分量はつぎのように決まります。その生徒がやってきた宿題をまずさっと教師がチェックして、間違いを各自が黒板で直していきます。そのときベストな分量があります。2時間の授業のうち半分の半分、つまり30分から多くても半分つまり1時間で直しが終わらなければなりません。そのような分量を個人の能力と性格をみきわめて出すのです。子どもは授業の前半で間違っていたところをヒントをもらってやりなおし、次の課題へ進みます。それは縫い物でいえば「半返し縫い」に似ています。これは、確実でしかも「いつも半歩は前進している」という気持ちをもてる方法です。

 

 英数会では、ですから各自各様にしか宿題を出しません。分量も難易度もさまざまです。定期テストの前には、出題範囲にそったところを少なめに。(他の科目の勉強もあるので)テストにとらわれなくてもいい時期は、能力のある生徒なら普通学校では触れないような原理的かつ高度なこと。成績が取れない生徒には、思いきって極基礎までまでさかのぼります。その子なりに、だんだんに高度で分量の多い宿題をもらえるようになれば、伸びている証拠です。この「伸びている感覚」は、どんな子どもでも、ごくわずかでも感じれば、かならず次につながる大事な感覚です。

 

 今回のコロナ禍はゆゆしき事です。また「学習の遅れ」を心配する声は当然上がってくるでしょう。しかし「監督のできないほどの分量の宿題」は、意味がありません。それよりもこの災いを福と転じるには、普段できていないこと、本を読む、新聞を読む、家族でゆっくり時間をすごす、というようなことの再発見かもしれませんね。

 

 大学受験勉強を開始する 新高3・高卒生へ

 

 進学校で受験対策をしてきたはずなのに、ふたを開けてみると実力がついていない生徒が近年増えてきているように思います。形だけの受験用教材をあたえられても、それが身についているかどうかは別問題。「入試長文演習」などといっても、定期テスト前に全訳をくばられて、それを「読んで」(日本語で!)けっこうな点数をもらっている、というようなケースすらあります。(最悪、、、)いざ自分ひとりで「訳せ」といわれると主語がどれかもわかっていない。そこに出ている重要な単語を「発音して」といわれると「え、発音するんすか?」「辞書を持ってきて」というとなんと受験用の「単語集」を持ってくる。(単語集の方が、語義が少なくて迷わなくてすむ、ということのようです)数学の問題を解くために「図を描け」といわれると、まっすぐに線を引くことすらあやしい。

 

 つまり、一からやり直しをする必要があるのです。気の毒なのは「基本的な勉強」のやりかたをほぼ「教えてもらっていない」君たちのほうでしょう。

 

 推薦狙いの学生が増えて定期テストの対策はもちろん大事ですが、その一方で一般受験のための「実力」がきちんとついていないと、推薦が取れなかったときたいへん悲惨なことになります。

 

 文科省が「アクティブラーニングだ」、「主体的な学びだ」といっていますが、そもそも主体的でなければ「学ぶ」ことなどできるはずもありません。いわれているほど今のこどもは知識偏重でも暗記型でもありません。むしろ「知識」はあらゆるレベルで不足しています。「暗記」は簡単でしょうか?「理解していないことを暗記する」のは、「理解することそのもの」よりはるかに困難です。よく「先生、覚えるっきゃないですよね」といってくる生徒がいます。その彼、彼女が「覚えた」ところを見たことは、わたしは一度もありません。暗記するくらいなら「頭をちゃんと使って理解してしまう」方がよほど易しい。そのくらいの「脳力」は誰だって持って生まれて来ているのですから。

 

 「黒板方式」は、どのような状態であろうとも「君のレべル」が教師に寸時に了解できるシステムです。

 そろそろ学年末テストです。面談を2月中にすませ、3月から勉強をはじめませんか?

 

 

  

 「アクティブラーニング」が自然に実現する「黒板方式」の軌跡

 

 

 

 

 生田英数会といえば「黒板方式」です。個人塾としての40年を越える実績はすべてこのやり方が土台にあったと言ってもいいでしょう。親子二代にわたって通塾してくれている生徒さんも十指にあまります。

 何十年かぶりに中学生や高校生のお子さんを連れて教室に入ってきた「かつての塾生」は、教室全面に張りめぐらされた変わらぬ黒板を見て、こう言います。

 

 「ああ、この黒板。変わっていませんねえ。」

 

 「黒板で解いたこと, 本当に忘れません。自分の子どもにもこれを体験させようと思って。」

 

 「自分の黒板の前でいやでも考えるようになったし、考えないと一歩も進めないことがわかった。それまで、ぜんぜんものを考えていなかったんですよ。」

 

さて、文科省は教育改革の一環として「アクティブラーニング」を打ち出しました。

以下、アクティブラーニングについての池上彰氏と佐藤勝氏の対談から抜粋します。( 東洋経済オンライン より )

 

池上:文部科学省がアクティブ・ラーニングを「主体的・対話的で深い学び」というふうに「改題」したことはすでに述べましたが、そこに今回の改革が想定する3つの視点が集約されています。

「主体的な学び」とは、学ぶことに興味、関心を持ち、見通しを持って粘り強く取り組み、学習活動を振り返りつつ次につなげていくこと。「対話的な学び」は、教師が一方的に教えるだけではなく、生徒が先生やほかの生徒、あるいは地域の人たちなどとの対話や協働などを通じて理解を深め、思考力を高めていくこと。

そして「深い学び」は、習得・活用・発見という学びの過程の中で、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりする力を養うこと――。大まかに言うと、そのように説明されています。

 

 

池上:学び方についてもう少しかみ砕いて説明すると、アクティブ・ラーニング本家のアメリカで行われているのは「反転授業」といって、最初に先生が授業のVTRを作り、学生たちはあらかじめ家でそれを見てから学校の授業に臨みます。従来の、授業を受けてから復習をみっちりやるという勉強方法を、文字どおり「反転」させているわけですね。

 

ベースになる知識は予習で頭に入っているから、本番の授業ではそれを踏まえて議論をすることでさらに理解が深まるし、自発的にその先の学びを追求することもできるメリットがある、とされます。

まあ、日本ですぐにそれを実行するのは難しいでしょうけれど、あらかじめ課題図書を読ませるなどして、授業では予習してどう思ったかといったことを議論させたうえで、先生がアドバイスするなり、最後にまとめる。想定されているのは、例えばそんなイメージではないでしょうか。

 

佐藤:いずれにせよ、アクティブ・ラーニングは絶対に必要だというのが、私の考えです。従来型の「受ける授業」では、これからの時代に必要な運用能力が身に付かないと思うからにほかなりません

 

 ここで池上さんが説明している「反転授業」ですが、英数会では「講義」というものを原則せず、その後の理解、演習、発展に集中して各自が自分のために用意された一人分の黒板に立って、解いていきます。これは事実上「反転授業」に相等するものであるとわたしたちは考えています。

 

 そのやり方を整理します。

 

1)     講義は原則行いません。新しい単元に入ったときに学校で説明を一応は聞いているという前提です。

2)     説明を聞いただけで、理解し、問題が解けるというわけではありません。むしろ、それだけでは「何も出来ない」「特に大学入試を見据えた高度な演習は無理」というのがふつうなのです。

3)     宿題は出します。家で一応考えたり、調べたりして解いてきてもらいます。各自のレベルにあわせて、問題の難易度、分量は変えています。

4)     当然、間違えていたり、考えても解法が浮かばず白紙、ということもあります。

5)     そこからが「黒板方式」の出番です。どこでつまずいているか、どこまでわかってどこからがわからないか、どういうヒントで反応できるか、生徒各自で全くといってよいほど、これは違うものです。

6)     それが、黒板で解いてもらうことで、一目瞭然。すぐに的確な指示、ヒントが出せます。そこより基礎にもどる場合もありますし、簡単にこなしているから「その問題は飛ばせ」ということもあります。

7)     結局、「もうわかっている説明」を聞かされることもないし、「ちんぷんかんぷんで置いていかれる」こともない。生徒にとっても、教師にとっても「燃費のよい」効率的な時間の使い方になります。

8)     このやり方で、同時に教室にいる生徒の学年、進度、学力がいかに異なっていても、事実上のマンツーマン対応が実現出来ます。

9)     それでいて、生徒相互間の刺激もマイルドなかたちであります。不思議と子どもたちは「良いほう」にあわせていくものです。「宿題をなまけない」「板書は丁寧に書く」「黒板掃除はちゃんとやる」などなど。理由はわからないのですが、「黒板方式」は人間に本来備わっている「知的な向上心」をどこかで刺激しているようです。

 

 要するに、いちばん肝心なのは、ことさら生徒に「意見」をいわせなくても、「質問」をさせなくても、各自が黒板で解くこと、解きかかっている姿を教師が背後から見ていることで、生徒と教師との「アクティブな対話」がタイムラグなく、成り立っていることでしょう。

 

 子どもはあらかじめ講義で「間違えるな」といっても間違える。「やるな」といったことをとかくやる。だったら先に間違えさせてしまおう、とわたしたちは考えました。「自分がやってみて、かつ間違えることによって、子どもの気持ちは少しだけ「オープン」になっている。その瞬間が対話の勝負なのです。

 

 「アクティブラーニング」だ、「主体的な学び」だ、といってもそれだけでは「絵に描いた餅」です。「黒板方式」がその実行の一例となっているなら嬉しいことです。

  

 

 

 

 センター試験が国公立大学だけでなく、私大入試にも使われることが多くなって、センター試験が2次試験の前の通過儀礼ではなくなって、本試験的な面を持った重い出題に変化してきたなというのが最初の感想である。

 それが顕著だったのが第2〜第4問の微積・数列・ベクトルである。特に数列は、最初の式が複雑なため後ずさりするような出題で、ヒントなしにこれを解けと言われたらよほどの達人でないと撃沈するだろう。そして問題の作者が、難しくしたことを反省しているかのように、易しい手引きを付けたものだから、落ち着いて計算しないと最後まで行かない。最後の5分か10分でそれをする受験生はさぞ辛かっただろう。もう少し見た目は簡単で、しかも本質を問うという良問はできなかったのかと思う。

 微積はやや難しいものの、今まで何度も出題された定番の、放物線の面積に係るものだった。こういう問題を見ていつも思うのは、解き方にも優劣があるということで、時間との戦いの中でベストにはいかなくても、計算の海に潜って沈没せず、図を使って短時間に確実に解く方法が必要だという点である。関数の図はまず横長に描かなければ、見たい部分がとても小さくなって使い物にならない。だから先ず下書きを30秒で描き、その上で大きい図を2分くらいで仕上げる。それも先ず薄く下書きをしそれを修正しながら濃くする。いきなり濃く描いて失敗したら消す、では時間がかかりすぎて考える時間がなくなる。そういう作業をしているうちに解法は自ずと浮かぶのである。描いて消すが一番いけない。

 第4問の空間ベクトルは座標にとらわれた図を描いてはいけない。テニスコートのような敷地に適当に4点O, A, B, Cをとって考えればよい。ただし学校でもこういう立体的に見えてしかも簡略な図の描き方を教えないことが多い。すっきりした図が描ければ最後まで苦労しないで解ける。
 最初に書いたように、本格的な問題に転化したセンター試験、それで高得点を得るには、やっと解ける段階から脱却することが必要だ。そしてそれには図を的確に描くという技術や、時間がかかっても正直に曖昧なところを考え抜く、誠実な訓練が必要だろう。

 

 「英語民間試験見送り」の背景によこたわるもの

 

 英語の民間試験の導入がついに撤回されました。その理由についてメディアでは「受験生の公平性が確保できない」など、実施にまつわる事務的なレベルの説明が目立ちました。荻生田大臣の「身の丈」発言が今回の「見送り」の決定打になったことからすれば「公平性云々」に論調が傾くのもやむをえない面もあるでしょう。しかし、今回のことは「やりかたがまずかった」という話では断じてないのです。英語教育実務者の間ではとっくに「より根源的な疑問」が提示されていました。それを扱うのはややこしく、わかりにくく、めんどくさいことでしょうが、マスコミにはもっとがんばって欲しいと思います。

 

 さて、今回の「民間試験撤回」とセットになってよく目にしたのが「だからといってグローバル化する世界に対応するために英語力がますます大切になることに変わりはない」という意見でした。これは政権中枢から文科省の役人、マスコミ関係者から一般大衆にいたるまでひろくゆきわたっている前提のようです。英語の「四技能」がここまで強調されるようになった背景は、言うまでもなくここにあります。しかし「グローバル人材」とひとくくりではいうものの、実はふたつの違ったありようを、わたしたちは腑分けせずに使っています。今回の混乱も、いや数十年にわたる英語教育の誤謬も、ここに原因があると思われるのです。

 

 グローバル人材のひとつの現実形は「グローバル労働者」です。NYのタクシー運転手や日本のコンビニで働くベトナム人をイメージしてください。彼らは最低限、「自分が働く国の言語を聞く、話すこと」ができなければ当然職にありつけません。ところが、わたしたち日本人一般が思い描く「グローバル人材」のなかに彼らは入っていません。あの人たちは「英語を駆使して世界を駆け回るかっこいいエリート」ではないからです。そしてより本質的なことですが、日本人は「語学を身につけて外国の労働者になる必要」が現実にありません。日本には十分な国内労働市場があるからだと説明されます。だから、この「労働者としてのグローバル人材」には関心が無いのです。彼らこそが外国語を「読む・書く」でなく、「聞く・話す」の見本であるにもかかわらずです。仮にわたしたちが英語圏に「出稼ぎに」いかなければ飢えるような国状の国民であったら「四技能」のうち「話す・聞く」は瞬く間に身につくでしょう。命がかかっていますからね。

 

 私たちは「英語が話せる」ことに確かにとてもあこがれてはいます。が、それは雅子様が外国の賓客と話す姿であって、イエローキャブの運転手が英語をしゃべる姿ではありません。いざ「話す英語」を大学入試として突きつけられてしまうと、今回の「英語民間試験騒動」を通じて明らかになったように、一般庶民は「何か知らないけど、迷惑な話だ」としか考えず、その「迷惑な試験」を回避するために、大学の附属校の人気がにわかに高まるという現象が起きました。この動きこそが一般国民の「本音」を象徴しています。あこがれてはいるが、現実には「ぜんぜん必要ないもの」。それが「英語を話す力」です。

 

 結局わたしたち日本人大衆がなんとなくあこがれとともに思い描いている「私たち好みのグローバル人材」とは「グローバルエリート」ということになります。しかしこれはその名のとおり「エリート」なのです。このエリートの世界では「英語力」(かならずしも「話せる」必要はなさそうですが)は必須でしょうが、それより大切なものがたくさんあります。たとえば2000年代にはいって輩出したノーベル賞科学者の方々。外国で研究生活をおくったことがあればもちろん英会話が堪能だったでしょうが、文献を「読む」、論文を「書く」力のほうが「ぺらぺらやる」よりよほど大事だったでしょう。そして英語力など「世界に通用する科学者」になるための多くの条件のひとつにすぎません。今年のノーベル賞は「リチウムイオン電池」の開発者吉野彰氏でした。リチウムイオン電池はスマホやパソコンで成り立つ「グローバル化した世界」に不可欠で、だからこそ受賞に至りました。しかし吉野氏は研究を志した当初から現在に至るまで、「グローバル化に向けてなにか新しい衣装」を纏おうとしたのではありません。そのような態度では何一つ手に入らない。そのことはどんな研究開発者でも知っていることです。むしろ「未知なるもの」に到達できるほど十分に「基礎的・本質的」なあり方をしていたのです。

 

 つまりこういうことです。グローバル人材の現実形であるグローバル労働者として「聞く・話す」英語を身につける必然は我が国には存在しません。ですからいくら文科省が笛も吹いても民衆はおどりだしません。今般の撤回騒動では「公平性云が担保できないから」という話になっていますが、本質はこちらです。

 一方「あこがれとしての英語力」は相変わらず人気ですが、これは幻想です。ほんとうにそれが必要なエリートは半年も訓練すれば英語はしゃべれるようになるでしょう。その人達だけを特訓すればよい。底辺からボトムアップするというなら、まず文法をやり直さなければ何も組立ちません。この数十年の英語教育の迷走によって、発音もできず、文法もおそまつ、という層が有名中堅大学つまりMARCHレベルにも相当数いるはずです。(推薦入試で合格していく生徒の「本当の学力」についてもっと赤裸々な追求があってしかるべきです) 文科省と一部のご用学者が唱える「英語の四技能」がいかに架空のお城であるか、おわかりいただけたでしょうか。

 

 世の中が急速に変わっている。乗り遅れないためにはなにか「新しいもの」を身につけなければならない、とあせる。その「新しいもの」をしかし誰も確とはイメージできない。その空白に「英語の四技能」がぴったりと入り込みました。政財界をふくめてわたしたち大衆は「国力の低下」のカンフルとして「英語の四技能」にあらぬ期待をよせすぎている、ということではないでしょうか。

 

 

 

 

 無神経に宿題を出しても意味はありません。宿題というのは単に「出す」ことよりも「その後始末」のほうが肝心なのです。

 

 たとえば進学実績を伸ばそうと懸命な新興の進学校では一般に宿題の分量が多いようです。しかし、夏休みや冬休みに演習用の問題集から一定の分量の宿題が出されたとして、ノートを提出、先生の検印で終わりといいうことも少なくありません。もちろん相当な人数のノートの中身をいちいちチェックなどできない。だからせいぜい確認できるのは「やったか、やらなかったか」でしょう。当然の事ではありますが。しかしそのような宿題は出しても出さなくても同じではないでしょうか。きまじめにやった友達のノートが、回覧されているという話を聞いたこともあります。

 また、休み中に復習用に薄手の問題集を渡されることもよくあります。内容は基礎確認で、解答もついています。自分で答え合わせをして提出せよ、ということなのでしょう。しかし、基礎確認が必要なような成績下位の生徒は「自己採点で自分を向上させる」というようなことはまず無理だと思ってよいのです。問題を解き、解答と照らし合わせる。成績不振者はまずこのことからして非常に苦痛に感じるはずです。次に、ここはこう思い違いをしていた、原理はわかっていたがここはうっかりしていた、辞書の引き方が不十分だった、など自分で確かめねばならない。そうやって自分を高められるようなら、その生徒は成績下位者ではそもそもいないでしょう。

 

 わたしの塾でも宿題はある分量を出しています。塾では一週間に一度か二度程度、数時間しかその子どもと会えません。だから「塾としての勉強への気持ちを連続させていくために」宿題を出すのです。

 宿題の難易度にはもっとも気を配ります。易しすぎて「鉛筆を持つ手がくたびれるだけ」のような宿題を出すと、生徒は教師をいっぺんで信用しなくなります。かといって、ほとんど手も足も出ない、というような難しい問題もまたよくありません。「やりようのない」問題は「やってもらえない」ので。

 分量も大切です。よく「先生、うちの子は部活が忙しくて週二回はとても通えません。その分、宿題をたくさん出してもらえませんか」という保護者の方がいらっしゃいます。ところが二倍出せば、二倍間違える。その二倍の間違いを週一回の授業で直さなければならなくなります。おそらく直しきれないでしょう。

 宿題の分量はつぎのように決まります。その生徒がやってきた宿題をまずさっと教師がチェックして、間違いを各自が黒板で直していきます。そのときベストな分量があります。2時間の授業のうち半分の半分、つまり30分から多くても半分つまり1時間で直しが終わらなければなりません。そのような分量を個人の能力と性格をみきわめて出すのです。子どもは授業の前半で間違っていたところをヒントをもらってやりなおし、次の課題へ進みます。それは縫い物でいえば「半返し縫い」に似ています。これは、確実でしかも「いつも半歩は前進している」という気持ちをもてる方法です。

 英数会では、ですから各自各様にしか宿題を出しません。分量も難易度もさまざまです。定期テストの前には、出題範囲にそったところを少なめに。(他の科目の勉強もあるので)テストにとらわれなくてもいい時期は、能力のある生徒なら普通学校では触れないような原理的かつ高度なこと。成績が取れない生徒には、思いきって極基礎までまでさかのぼります。その子なりに、だんだんに高度で分量の多い宿題をもらえるようになれば、伸びている証拠です。この「伸びている感覚」は、どんな子どもでも、ごくわずかでも感じれば、かならず次につながる大事な感覚です。

 

 

 

 新制度英語入試についての懸念

 

 2020年度から予定されている英語入試改革について、具体的な要項がまだまとまっていないことに懸念が広がっている。全国校長協会が「不安の解消」をもとめて異例の申し入れをおこなったことも報じられた。しかしここで気になるのは、議論がもっぱら実施の場所や時期、公平性などのいわば「事務面」に集中していることだ。本当の問題点は、はたしてそこにあるのだろうか。

 「グローバル化する世界への対応」といえば、「やはり語学力でしょう。表現力でしょう。スピーキング力でしょう。」と、世間は「なんとなく」納得しているのが現実である。上から降ってきたこの大改革に当事者たる受験生や保護者が異を唱えている余裕はない。そこで現高2生達は新制度入試の練習として盛んに英検を受け始めている。もちろん他の業者テストも学校などで受験する機会は増えているようだが、英検はその認知度と利便性においていまのところ群を抜いている。早期から試験内容を新制度対応に変えて、いわば「やる気満々」の姿勢を見せている。

 ところでその英検について、このところ気になる事実が個人塾の講師であるわたしの経験するところとなっている。以前であったら決して合格とはならなかったであろう低い学力の生徒が、二級に合格し始めたのである。その理由は以下のように考えられる。英検の一次試験の全配点84点のうち、リーディング部分は38点、つまり45%である一方、ライティングとリスニングの合計は46点つまり55%と半分を超えている。受験生が不安に感じることが多いライティング、リスニングではあるが、配点が高い割に存外易しく、点が取りやすいのである。したがって「文法や読み」が従来よりも出来が悪くても合格できるのだろう。もちろん2020年度からの新制度入試は、現在高校生が受けている英検そのままではない。しかし相当な程度新制度入試を占うものではあるだろう。この「易化傾向」が反転して「難化」に向かうとは考えにくい。このような「易化テスト」ではたして学生の英語力は保証されるのだろうか。文科省があくまでこだわる「4技能」ではあるが、形の上だけの「やってます」であって、さらなる低学力化を促進させるかもしれないのだ。

 さらに新たな心配も想像される。民間テストは複数実施されるにせよ、つまるところ「易しく、点が取りやすい」方が受験生を多く集めるのは当然のことである。「このテストが易しい」という情報はネット社会にあって瞬く間に拡散するにちがいない。仮に良心ある業者が「これだけは高校卒業レベルとして確保したい」という水準内容のテストを実施し続けたとしても、それでは「商売にならない」事態がきっと生ずる。各テストの「公平性」など、もともと担保できないが、そもそも「公平性」に受験生の誰が関心があるだろうか。誰だって少しでも「易しく、点数が出やすい」テストを受けたいだろう。あってはならない事ながら、「市場原理」によって、民間テストは「一番易しいテスト」に向かって、淘汰されていくのではないか。これがせっかく安定した実績をもつ「センター試験」を廃止してまで断行しようとしている「4技能試験」の未来である。子どもたちを向上させるどころか、さらなる低学力を生み出す。これが悪夢でないことを祈るほかない。

 

    高3のクラスでした。入試英文の解釈です。

 

  Most Americans and British people would agree that it is good manners to be punctual for an appointment.

 

  この文の「manners」の訳ですが、

 

 「約束の時間を守るのは良い風習である」とする生徒が、けっこう多いのに驚きます。

  辞書を引くと、manner と単数形なら「方法、態度、様子」manners と複数形だと「行儀、作法、風習、習慣」。単数と複数で意味の変わる単語です。生徒は辞書はちゃんと引いてくれます。また、manners と複数形で調べて、とも言いました。そこでよりによってどうして「風習」なんでしょうかね。

 

 「あのねえ、風習っていうとわたしはどうしても、昔の日本にはお歯黒の風習があった、とか、○○は原住民の風習だ、とか。そういう使い方を思い浮かべる。君はどうなの?っていってもあんまり考えてはいないんでしょうね。マナーだからマナーって訳したらまずいだろう、とは思っている。先生がカタカナ英語は要注意、っていってるからね。でもたまたまだけど、この場合「風習」とするくらいなら「マナー」のほうがよほどいいかな。ともかくしょうがない。まず「風習」が我が国ではどういうことを意味するか、からだ。「風習」でまず短文作ろう」

 

 こういうのは一例に過ぎません。まず、ことばの使い分けができていない。うるさく言われたことがない。「使い分けるべき場面」を教育の中で体験していない。塾で、しかも英語の塾で、「ここから?!」状態。

  

 森有正は日本には文法論はあっても、文法そのものを教えるということはおこなわれていない、とある本の中で指摘しています。

 「文法そのもの」といって、何をイメージするかが問題です。

 たとえば、わたしたちは口語でも文語でも文法の授業と言いますと、もうできあがった文章に対して、文節分けをしたり、品詞を見極めたり、活用を云々したりすることを思い浮かべます。が、森有正が言っている「文法そのもの」というのは、そういうあらかじめ有るものに対しての「分析」ではなさそうです。

 文法に則って、言葉がただしく操れるか、語彙が豊富か、いや、そもそもその語の意味用法を正しく身につけているか。自分の国のことばなんだから「簡単でしょ」とはならず、「教育されてはじめて言葉は使えるようになる」という前提を国全体が「常識」として持っている。そういった言葉の教育の総体を「文法」と呼んでいると考えられます。

 

 ひるがえって、ちかごろ我が国の政権がイメージし、文科省の官僚達が忖度している「これからの国語能力」というのは、新制度の入試問題のサンプルをみるかぎり「いったい何なの、これ」という代物。「情報を編集・操作する能力」だそうですが、なんでこれほどまでに「契約書」とか「規約」を読ませようとするんでしょう。どうも「情報を使える」ということを「現場で使える」ということにして、奇妙で矮小な形に「見える化」してしまった、という印象を受けます。ここにあるのは、自分たちのやってることがきわめて単純に直截なかたちで「政権のえらいさん」に認められなければならないという強くもおろかな意志です。良心も知性も常識もここにはない。

 必要なのはそんなものじゃない、という反対運動がもっともっと国語教育界から上がってきてほしいのですが。

 

 「風習」の使い方も知らない子どもたちです。言葉の教育の必要性について、なにか浮き足だったこと、見た目だけの「グローバル対応」をやってほしくない。あたりまえの、基本のおしえ。文法や作文の指導。そこに立ち返りたいものです。

 

 

 新聞の古い切り抜きを整理していて、こんな記事を手に取って拾い読みしているうちに 捨てられなくなりました。池上彰が朝日新聞に書いている「新聞ななめ読み」のある回の切り抜きです。題は「オバマ氏の『抹茶アイス』」とあって、日付は2009113日。なんともう十年近く前の記事でした。

 

 冒頭にはこうあります。「1114日、アメリカのオバマ大統領が東京で公演しました。新聞各紙は15日朝刊に演説の日本語訳を掲載しました。性格の悪い私は、各紙の日本語訳を比較してみました」。

 

 まず朝日新聞訳が載っています。掲載誌が朝日だから当然というところでしょうが。以下、朝日訳です。

 「少年時代、母に連れられて鎌倉を訪れ、平和や静けさをたたえた大仏を見上げた。子供の私は抹茶アイスクリームにより見せられた。昨夜の夕食会で、その思い出を紹介しながらアイスクリームを食べられたことを、鳩山首相に感謝したい。どうもありがとう」

 

 この部分の原文は以下の通りです。

 

 It is wonderful to be back in Japan. という導入に引き続き、

 Some of you may be aware that when I was a young boy, my mother brought me to Kamakura, where I looked up that centuries - old symbol of peace and tranquility – the great bronze Amida Buddha. And as a child, I was more focused on the matcha ice cream. ( Laughter. ) And I want to thank Prime Minister Hatoyama for sharing some of those memories with more ice cream last night at dinner. ( Laughter and applause.) Thank you very much.

 

 さて、次に池上氏は、同じ部分の読売新聞訳を紹介します。

 

 「幼い頃、母が私を鎌倉に連れてきたことがある。何世紀にもわたり平和と静寂の象徴だった巨大な青銅の大仏を見上げたものだ。ただ、子どもだった私は、抹茶アイスの方に夢中だったのだが(笑い)。昨晩の夕食会でまたアイスクリームを食べながら、鳩山首相に思い出話を聞いてもらったことを感謝したい(笑い。拍手)。ありがとう」

 

 池上氏の意見は次のようなものです。

 

「さて、どちらが臨場感を伝えているでしょうか。大仏よりも抹茶アイスのほうに気をとられた、というのが、オバマ大統領の演説のいわゆる「つかみ」です。

 オバマ大統領としては、ここで観衆の笑いをとろうとしていたのですね。

 朝日新聞訳だと、オバマ大統領の狙いが成功したかどうかわかりません。それどころか、うっかりしていると、読者がオバマ大統領の狙いに気がつかないまま読み過ごしてしまうかも知れません。」

 

 さらに池上氏は、日経新聞訳もとりあげます。もう一カ所の、more です。

 

 「ちなみに夕食会で食べたアイスについて、日経新聞訳だけは『たくさんアイスを食べ』になっています。本当はどうなのか。原文にあたると『(あのとき食べたよりも)たくさんのアイス』と訳した方がよっかたように思えます。」

 

 ところで池上氏が「朝日新聞訳ではオバマ大統領の狙いが成功したかどうかわからない」と指摘する理由は明らかです。

 原文が

 

 And as a child, I was more focused on the matcha ice cream. ( Laughter. )

 

 となっているところを、朝日は

 

 子供の私は抹茶アイスクリームにより見せられた。

 

 ところが、読売は

 

 ただ、子どもだった私は、抹茶アイスの方に夢中だったのだが(笑い)

 

 というように「生き生き」と訳しました。

 

 さて、わたしがどうしてもこの記事を捨てられなかった理由をこれから説明します。生徒たちに「英文和訳」をやらせていると、共通して、ごく基本的なのに、じつにしばしば「守られない」いくつかの事項があることに経験的に気がつきます。そのひとつが、実にこの「more」だったからです。

 

 more が文中にでてくると、10人のうち5,6人は「日経式」つまり全く訳さずに「無視」します。2人は訳しますが「朝日式」つまり「より〜」ですませます。残るたったひとりが読売のような「楽しくも正しい(だって、訳すというのはここまでやって初めて訳したことになるのですから)」訳をします。いや、全滅ということも結構あるかも。このところいわゆる高偏差値の学校でも「まともに訳す」ことを期待できなくなってきました。

 

 どうしてこんなやさしいmore を訳すことが、これほど難しいのでしょうか。その理由は、子どもたちのありようを見ているとよくわかるのです。

 比較級が出てきたときに、学習用のドリルでは 比較の対象は than 以下で示されます。でも、実際の「生きた文章」のなかではむしろ、than 以下が書いてないことの方が普通。するともう、文章を読んでいってmore のごときはあってもなくても同じ。そこに「書かれていない、than 以下」を想像して、「ははん、だからここに比較級の more が来ているわけだ」とはならない。そういうふうに「ちょっと余分に頭を使う」のがとてもへた。日経式に「完全無視」か、せいぜい「すり切り一杯」の「朝日式、より〜」でおしまいにします。

 例外的に、そういうことを習わなくてもできる、あるいはやらずにはいられない「気の利いた子」が、この世に一割、か、その半分くらいいる、というのがわたしの現場人としての感触です。

 

 よく「なぜ勉強しなければならないか」という問いが(誰が出すんでしょう)

出されますよね。

  

 読売式に訳せる子はこう答えるでしょう。

  「だって、おもしろいじゃん」

 朝日式は、

  「だって、試験に受からなきゃ、就職できないでしょ」

 日経式は 

  「勉強?ただふつうに大学行きたいんで。理由はないっす。」

 

 今、わたしたちの教育はすっかり「せいぜいが朝日式」になってはいないでしょうか。

  

  比較級があったら、読み過ごさないで立ち止まり、ちょっと余分に頭を使って、比較の相手(対象)を想像して訳そう。

 

 今回のまとめです。