「英語民間試験見送り」の背景によこたわるもの | こくばん塾 生田英数会 塾長のブログ

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 「英語民間試験見送り」の背景によこたわるもの

 

 英語の民間試験の導入がついに撤回されました。その理由についてメディアでは「受験生の公平性が確保できない」など、実施にまつわる事務的なレベルの説明が目立ちました。荻生田大臣の「身の丈」発言が今回の「見送り」の決定打になったことからすれば「公平性云々」に論調が傾くのもやむをえない面もあるでしょう。しかし、今回のことは「やりかたがまずかった」という話では断じてないのです。英語教育実務者の間ではとっくに「より根源的な疑問」が提示されていました。それを扱うのはややこしく、わかりにくく、めんどくさいことでしょうが、マスコミにはもっとがんばって欲しいと思います。

 

 さて、今回の「民間試験撤回」とセットになってよく目にしたのが「だからといってグローバル化する世界に対応するために英語力がますます大切になることに変わりはない」という意見でした。これは政権中枢から文科省の役人、マスコミ関係者から一般大衆にいたるまでひろくゆきわたっている前提のようです。英語の「四技能」がここまで強調されるようになった背景は、言うまでもなくここにあります。しかし「グローバル人材」とひとくくりではいうものの、実はふたつの違ったありようを、わたしたちは腑分けせずに使っています。今回の混乱も、いや数十年にわたる英語教育の誤謬も、ここに原因があると思われるのです。

 

 グローバル人材のひとつの現実形は「グローバル労働者」です。NYのタクシー運転手や日本のコンビニで働くベトナム人をイメージしてください。彼らは最低限、「自分が働く国の言語を聞く、話すこと」ができなければ当然職にありつけません。ところが、わたしたち日本人一般が思い描く「グローバル人材」のなかに彼らは入っていません。あの人たちは「英語を駆使して世界を駆け回るかっこいいエリート」ではないからです。そしてより本質的なことですが、日本人は「語学を身につけて外国の労働者になる必要」が現実にありません。日本には十分な国内労働市場があるからだと説明されます。だから、この「労働者としてのグローバル人材」には関心が無いのです。彼らこそが外国語を「読む・書く」でなく、「聞く・話す」の見本であるにもかかわらずです。仮にわたしたちが英語圏に「出稼ぎに」いかなければ飢えるような国状の国民であったら「四技能」のうち「話す・聞く」は瞬く間に身につくでしょう。命がかかっていますからね。

 

 私たちは「英語が話せる」ことに確かにとてもあこがれてはいます。が、それは雅子様が外国の賓客と話す姿であって、イエローキャブの運転手が英語をしゃべる姿ではありません。いざ「話す英語」を大学入試として突きつけられてしまうと、今回の「英語民間試験騒動」を通じて明らかになったように、一般庶民は「何か知らないけど、迷惑な話だ」としか考えず、その「迷惑な試験」を回避するために、大学の附属校の人気がにわかに高まるという現象が起きました。この動きこそが一般国民の「本音」を象徴しています。あこがれてはいるが、現実には「ぜんぜん必要ないもの」。それが「英語を話す力」です。

 

 結局わたしたち日本人大衆がなんとなくあこがれとともに思い描いている「私たち好みのグローバル人材」とは「グローバルエリート」ということになります。しかしこれはその名のとおり「エリート」なのです。このエリートの世界では「英語力」(かならずしも「話せる」必要はなさそうですが)は必須でしょうが、それより大切なものがたくさんあります。たとえば2000年代にはいって輩出したノーベル賞科学者の方々。外国で研究生活をおくったことがあればもちろん英会話が堪能だったでしょうが、文献を「読む」、論文を「書く」力のほうが「ぺらぺらやる」よりよほど大事だったでしょう。そして英語力など「世界に通用する科学者」になるための多くの条件のひとつにすぎません。今年のノーベル賞は「リチウムイオン電池」の開発者吉野彰氏でした。リチウムイオン電池はスマホやパソコンで成り立つ「グローバル化した世界」に不可欠で、だからこそ受賞に至りました。しかし吉野氏は研究を志した当初から現在に至るまで、「グローバル化に向けてなにか新しい衣装」を纏おうとしたのではありません。そのような態度では何一つ手に入らない。そのことはどんな研究開発者でも知っていることです。むしろ「未知なるもの」に到達できるほど十分に「基礎的・本質的」なあり方をしていたのです。

 

 つまりこういうことです。グローバル人材の現実形であるグローバル労働者として「聞く・話す」英語を身につける必然は我が国には存在しません。ですからいくら文科省が笛も吹いても民衆はおどりだしません。今般の撤回騒動では「公平性云が担保できないから」という話になっていますが、本質はこちらです。

 一方「あこがれとしての英語力」は相変わらず人気ですが、これは幻想です。ほんとうにそれが必要なエリートは半年も訓練すれば英語はしゃべれるようになるでしょう。その人達だけを特訓すればよい。底辺からボトムアップするというなら、まず文法をやり直さなければ何も組立ちません。この数十年の英語教育の迷走によって、発音もできず、文法もおそまつ、という層が有名中堅大学つまりMARCHレベルにも相当数いるはずです。(推薦入試で合格していく生徒の「本当の学力」についてもっと赤裸々な追求があってしかるべきです) 文科省と一部のご用学者が唱える「英語の四技能」がいかに架空のお城であるか、おわかりいただけたでしょうか。

 

 世の中が急速に変わっている。乗り遅れないためにはなにか「新しいもの」を身につけなければならない、とあせる。その「新しいもの」をしかし誰も確とはイメージできない。その空白に「英語の四技能」がぴったりと入り込みました。政財界をふくめてわたしたち大衆は「国力の低下」のカンフルとして「英語の四技能」にあらぬ期待をよせすぎている、ということではないでしょうか。