オトナのための教養キソ3 AIと「死なない人」の関係 なぜ企業に参政権がないのか | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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日本の教育の欠陥の一つに言葉が指すこと(概念)を突き詰めることを求めようとしないことがあります。
そのために西洋でできた制度・習慣がよくわからないことが起きています。
 
その中で大きくすれ違っているものの中に
「人」とはいったい何を指すのか?ということがあります。
その中で特に重要なものに、
西洋で生まれた擬制(なぞらえること)された人、「法人」という考え方があります。
日本では普通は「企業・会社・団体」と理解されています。
(「法人」は「公法人(国・自治体)」と「私法人(それ以外)」とに分けられる)

今朝(5/24)の朝刊でも
法律上、AIが作ったものの著作権は誰のものになるかということを取りあげていました。
国際的影響が大きい米国法を参考に「人」以外には権利は生じないという結論になるようです。

ところが
ここでの人には「法人」が含まれます。
法人は権利・義務の主体になれるからです。
特許権だって割合からすればほとんどを法人(会社)がもっていると思います。
(特許庁の統計によれば、2022年の特許出願件数は、
 個人  5,966件 法人 283,545件 官庁 19件)

そこからを誤解をしている日本の経営者がたくさんいます。
彼らは法人が契約の権利義務の主体になれるから
参政権があるも当然という勝手な連想をしているのです。
税金を払っているのになぜ国籍をもたなければ参政権がないのかという主張と同じ次元のものです。
(法人税というものがありますから)
 
法律の上では人は二種類あります。
「自然人」と「法人」です。
自然人とは生まれて死ぬ人間です。
 
法の基本では自然人と法人は同じように権利義務を負います。
しかし
完全に同じ権利義務を負うことありません。
そうです
両者には決定的な違いがあるからです。
肉体をもつかもたないか
死ぬか死なないかです。
 
大学受験のころ単語帳の英単語の中に「mortal(死すべき)」という言葉がありました。
この言葉は「人は必ず死ぬ」ということを含んでいます。
そのころは、なぜこんな単語が英語で必要なのかわかりませんでした。
 
その後、学ぶうちに
キリスト教徒にしかわからない「死」という考え方があるということに気づきました。
そこから生まれた「人」のとらえ方(概念)があります。
その中には死なない者が世の中を支配してはいけないという考えが含まれていると思います。
(それは反キリストの悪霊でしかないからでしょうか)

だから
実際に社会・経済の上でどれだけ企業が力も持とうとも政治をするのは生身の人間だという考え方が生まれます。
 
欧米の常識では
選挙権が法人(企業)にあると考えたりしないのは当たり前すぎることです。
今国会で与野党の対立点になっている企業の政治献金もありません。
政治献金ができるのは個人だけといっても
政治家の財団に企業が寄付するという抜け道はあります。
 
ところが
以前、ある日本を代表する経済団体の代表が
「企業は社会の一員だから政治参加をさせろ」という発言をしました。
きっと経済団体の長になるくらいですから
それなりの学校でそれなりの学問を修めた人だと思います。
認められたら、会社も立候補できるようにしろと言い出したのでしょうか(笑)

しかし、
残念ながら彼らは西洋の人たちが長い時間の間に作り上げた「人」という考え(概念)を知ることがなかったようです。
少なくとも欧米の制度にしたがった日本では
彼らの理解にしたがわなかったならいつかどこかでいざこざが起きます。
 
日本でも人になぞらえられた人という考えがなかったわけではありません。
実は、江戸時代後期には大名の家中はすでに法人に近い考え方をしていました。
(「家中」、いわゆる「藩」のことです。しかし、江戸時代公式には一切「藩」という言葉が使われた事はありません)
司馬遼太郎さんはエッセーで
幕末長州ではすでに家中(藩)は法人という考え方をしていたとしています。
それが正しければすでに日本で独自に法人という考え方が出来ていたことになります。
株や相場ではほとんど江戸時代当時の日本語がそのままで現在でも通用しています。
ところが、明治時代の輸入された学問は日本で生まれた社会の動きを受け止め切れなかったようです。
 
いくら、用語を覚えたり法律を覚えても
その言葉の指すところの核心をとらえなければとんでもない誤解が生まれます。
特に、普通教育では専門的な知識、高度な理解を知ることよりも
かえって、核心の理解を求めます。
普通教育のレベルを上げるとはいかに物事の核心をとらえやすい言葉で語るかということから始まります。