「競争で優劣が決まる」は最大の迷信か? 学ぶべきは競争ではなく協力 | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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「巫蠱(ふこ)」という言葉があります。
他人に危害を与えるために行われた呪術です。
そのためには「蠱毒(こどく)」をつくる必要があります。
 
器の中に多くの蛇や毒虫を入れておくと互いに喰い合う。
最後に残った1匹には膨大な呪力があり
蠱毒と呼ばれた。
それを用いて他人を呪い殺すことができるとされた。
 
わたしが日本での受験競争をみて連想するのは「巫蠱」のために「蠱毒」をつくる姿です。
 
競い合って生き残ったのが最強になる。
これって蠱毒と同じ理屈じゃないですか。
みなさんは蠱毒は迷信だと思いますよね。
じゃ、どうして競争のための競争は迷信じゃないんですか。
 
世界では(日本、china、koreaを除いて)
能力が高く競争で地位を求める子どもたち
エリートと言われる子どもたちでさえも
必要な能力さえクリアできれば、
あとは人としての経験値を上げるために時間を使っています。
 
もともとAO入試制度とはそのような人材を求めるために生まれたものです。
(日本では全く誤解されていますが)
子どもが多少の知識を多くもつよりも人としての経験値の方が
大人になってから役に立つと受け止められているのです。
 
残念ながらそれが成り立っているのは社会階層の上下があり
努力では乗り越えることがむずかしいという現実があることも事実です。
その点では日本、china、koreaは成り上がりがやりやすい国なのです。
 
そこにはリーダーシップは一種の才能であるという考え方があるのです。
上層に生まれた人間はリーダーシップを体感する条件に恵まれている。
(芸事の家元に生まれるのと同じようなことです)
 
それだけで格差ができてしまうのです。
 
努力でつくれないことはないと思いますが
そう簡単につくれるものではないでしょう。
努力とは「努力できるという才能」の言い換えでもあるのです。
わたしも体が思うように動かせたころはまだしも
自分が内科の病になってそのことをつくづく思い知られました。 

それでも
互いに争うよりも、「協力する方が成功する」ことは
とっくに、「ゲーム理論」でも結論がでています。
 
そうすると、成果主義の立場からでさえも競争よりも協力の方が正しいことになります。
学ぶことが必要なのは競争の仕方ではなく協力の仕方です。
 
※ゲーム理論・・・ 相手の手の打ち方を読んで、できるだけ自分の得点を高くし、失点を少なくするにはどうするか、という方法を求める数学理論
 
「優れている」ことの意味を考え直す時がきているのです。