言葉は合理的であっても論理的ではないとはどういうことでしょうか?
これは言葉を学ぶ上では非常に重要なことです。
①言葉が論理的ではないとはどんなことか?
たとえば
「いぬ(犬)」がなぜ「いぬ」と呼ばれるか語源をさかのぼることはできても
なぜそこで「い・ぬ」という発音が「犬」を指すことになったのかは説明できません。
(これはあの言語学を根本的に変えたソシュールが言っていることです)
もし、その理由があるならすべての言語で「犬」の呼び方は同じになるはずだからです。
また
規則性が高いといわれる言語でもどこかに規則に収まらないところがあります。
(エスペラント語のような人工の言語には規則が先につくられますから例外を無くすことはできますが)
日本語でもなぜ動詞の活用が何種類もあるかなどという質問に答えはありません。
言葉は作られるものではなく出来上がるものだからでしょう。
言葉が論理的であれば活用語の活用は品詞ごとにすべて同じ形になるはずです。
つまり
言葉を使うときにたいてい何故という問いは通らないということです。
文法学は成り立っても(言葉の規則性を考えることはできても)
言葉は規則から出来上がっているのではないということです。
②言葉が合理的であるとはどんなことか?
言葉は自然に生まれても使われる中で自分を合理化していきます。
すでに50年以上前から知られていることですが
北関東(群馬県のあたりで)「来る」が「カ行変格活用」から「カ行五段活用」に変化し始めています。
それほど遠くない未来にこの地域ではこの変化が定着するのではないかと考えられています。
とうことは、日本語全体でもその可能性があるということです。
なぜそんなことが起きるかと言うと
私たちは時々「変格活用」の動詞を言い間違えることがあります。
うっかり、少数である「変格活用」を標準になっている「五段活用」と取り違えてしまうわけです。
言語は昔になればなるほど複雑だったと考えられます。
日本語でも古典の文法を考えてみれば分かると思います。
それが時代の流れとともに言い間違いや思い違いが習慣になって
多数者側に変化して行くのです。
このように
理論の上でははみ出してしまうが(どこかで例外がある)
筋道の上では単純化していく(合理的に動く)のが言語の性質です。
法則化しようとする例外が目立っても
一つ一つのことからからみると筋を通そうとする力が働く
これが言語の性質です。
「言葉は合理的であっても論理的ではない」は言い換えれば
「言語は習慣である」という言い方になります。
ここに言葉を学ぶことのむずかしさがあります。
何故を問うことはむずかしく
どのようにしか問うことができません。
突き詰めて言えば
正確に学ぼうと思えば言葉という習慣をすべてを丸暗記するしかない。
しかし
丸暗記のためにはものすごい労力がかかる
その時間を短くするために文法はあると考えればいいのですが
文法は規則を示すものではないのです。
規則を示すと思い込んだ子は結局混乱を起こすでしょう。